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時を創った美しきヒロイン

ファッションデザイナー

エルザ・スキャパレリ

Elsa Schiaparelli

私のファンタスティックな想像力が
上空で次々と花火に火をつけた

 1937年、パリのファッションデザイナー、エルザ・スキャパレリが「ショッキングピンク」と名付けた鮮やかなピンク色のドレスを発表。今では見慣れたピンク色ですが、当時はセンセーショナルな事件でした。「明るくて、あり得ない色、魅力的で、活気づけられる、世界中の光と鳥と魚を一緒にしたような色」――エルザの代名詞となった不朽のカラーが誕生したのです。

 エルザ・スキャパレリは、1890年にイタリアのローマで裕福な家庭に生まれました。父親は王立図書館長でオリエント学者。しかし、長女に続いてまた女の子だったため、両親はがっかり。名前も付けてもらえませんでした。洗礼式で司祭に名前を問われ、乳母の名前エルザがその場しのぎで命名されます。

 さらに母親は、美しい姉と比べエルザを不細工とけなします。でも、高名な天文学者である伯父は、エルザの頬にある7つのほくろを「大熊座があるよ」と誉めてくれたのです。そして、屋根裏部屋にあった衣装箱の昔の美しいドレスを身に着けては、空想にふけるのでした。

 やがて24歳になると、イギリスに住む姉の友人に誘われてロンドンへ。経由地のパリは「将来、ここに住むわ!」と直感的に感じさせる魅力がありました。そして、パリ滞在中に舞踏会に招かれ、ドレスのなかったエルザはデパートで布を買い求め体に巻き付けます。風変わりなドレスはその場で注目を集め、服を作る楽しさを味わった瞬間でした。

 ロンドンでは暇を見つけて神智学の講義を聴きに行き、その講師と翌朝に結婚。夫は気まぐれにニューヨーク行きを決め2人で渡航します。しかし、夫は仕事もせず一人娘が生まれる前に女性と失踪。エルザは養育費を稼ぐためにパリに移住します。 「つらくても自由であるほうを選んだ。自分の道は自分で作りたかった」――自活の道を模索中に、女性をコルセットから解放した有名デザイナー、ポール・ポワレに見出されデザイナーの道に進むことになるのです。服作りを学んだことがなくても、エルザには豊富な発想力がありました――「私にとって洋服をデザインすることは職業でなく芸術だった」。

 1927年、蝶結びのリボン柄を編み込んだだまし絵のようなセーターでデビュー。これが大ヒットし、一躍人気デザイナーとなるのです。「私のファンタスティックな想像力が上空で次々と花火に火をつけた」――マン・レイ、ジャン・コクトー、ダリなどの前衛芸術家とも交わり、奇抜なモードを生み出していきます。靴を頭に載せたシューハット、大きくロブスターを描いたドレス、骨格を浮き上がらせたような骸骨ドレス、昆虫のアクセサリー…。アバンギャルドな作品は脚光を浴びました。 「風変わりな身なりで人前に出るのを恥ずかしく思ったことはない」――お嬢様育ちで優れた美意識を発揮するエルザ、そんな彼女に嫉妬したのは、孤児院育ちでモノトーンの服で勝負するココ・シャネルでした。

 やがて大戦を経て、戦後の苦しい時勢に「ファンタジーを取り戻さなければならない」と、パリの店を再開。しかし、1954年に突然引退。理由は謎ですが、まさに花火のように活躍した後、時代に取り残されたとも言われています。奇しくもその年に、ナチス協力者で国を追われたシャネルがパリに復帰したのでした。

Profile

1890~1973年。ファッションデザイナー。ローマで、父はオリエント学者、母は貴族出身、伯父は高名な天文学者、父の従兄は高名なエジプト考古学者という家系に生まれる。21歳で詩集を出版。1927年にパリで小さな店からスタートし、1935年にヴァンドーム広場にメゾン「エルザ・スキャパレリ」をオープン。独創的で前衛的な作品で注目を集め「ファッションの女王」と呼ばれる。映画や舞台の衣装も手掛けた。映画『バリー・リンドン』に出演したスター女優でトップモデルのマリサ・ベレンソンは孫にあたる。