作家
幸田 文
Aya Kouda
人には運命を踏んで立つ力があるものだ
昭和25年4月7日の夕刊毎日新聞に、文筆家・幸田文の「私は筆を絶つ」宣言が載りました。明治の文豪・幸田露伴の娘である文は、父の末期などを綴って人気となっていました。「このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるもの」――突然の引退宣言後、文は人前から姿を隠したのです。
明治37年9月1日に、文は東京隅田川沿いの向島で誕生しました。器量がよく聡明な姉と、幸田家の跡取りとして大事にされた弟の間で、「寂寥と不平とひがみを道づれに」育ちます。そんな文は、「強情っぱりのみそっかす」と呼ばれます。
露伴は、子供の家庭教育には熱心でした。幼い頃から散歩しながら植物の名前を教え、おはじき・お手玉などで一緒に遊び、子供には早すぎる盛り場の社会見学もさせます。「見ることが先」と耳学問を戒め、実際に物事を見て学ぶ「格物致知」の教えを体得させたのです。
そして文が6歳で母が、8歳で姉が他界し、露伴は再婚。しかし、女学校の教師だった継母は、家事が不得手で、露伴と派手な諍いを繰り返します。そのため露伴は、家事一切を文に厳しく仕込みました――「掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習った。……おしろいのつけかたも豆腐の切りかたも障子の張りかたも借金の挨拶も恋の出入も、みんな父が世話をやいてくれた」
やがて弟も病没し、文は清酒問屋に嫁ぎますが、困窮の末に33歳の時に一人娘の玉を連れて離婚。露伴と継母はすでに別居状態で、文が主婦となり幸田家を支えていきます。
戦中戦後の苦しい時代、病に伏した露伴を看病した文は、昭和22年7月、父の終焉を見届けます。その前後から人に勧められるままに書いた露伴の近況『雑記』を発表。「筆一本でくらす家に育ったくせに書くことに無経験だった」文の素直で歯切れのよい文章が好評となります。43歳での作家デビューでした。
しかし、次第に文は父のことだけを書く仕事が安易に思え、「私は想い出屋」と自嘲するように…。そんな苦悩の末の断筆宣言でした。そして、偽名で柳橋の芸者置屋に住み込んで下働きを始めたのです。やがて体を壊した文は、「やはり文筆で生きていきます」と覚悟を決めます。
そして、花柳界の人間模様を描いた小説『流れる』を52歳で発表。たちまち大評判となりすぐに映画化もされ、日本芸術院賞を受賞。ようやく「父の思い出から離れて何でも書ける人間として」自立したのです。数々のベストセラーを刊行しながら文が次に挑戦したのはルポルタージュでした。蒸気機関車や捕鯨船、清掃車に乗り込んだり、外科手術や鉱山など、男たちの仕事現場を取材して回ります。露伴の「格物致知」の教えが実を結んだのでした。
60歳過ぎには落雷で焼失した奈良の法輪寺三重塔の再建に奮起し、「資金不足で着工できないとは、昭和の恥」と、資金集めに奔走。興味の赴くままに70歳を過ぎても、全国の樹木や地崩れ現場を訪ね歩きます。
波風の多い家庭環境の中で、「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」と心した少女が、人生後半に作家として大きく花開きました。
興味を持ったら行動し、実際に見て感動する心を生涯大切にした文でした――「感動を求め、感動を心の寄せどころにしようときめた」
1904~1990年。作家。第一回文化勲章受章の文豪・幸田露伴の次女として誕生。露伴の死去後、執筆活動に入る。粋な美意識に貫かれた明快な文体が人気に。小説、随筆、探訪記など著書多数。代表作『流れる』『おとうと』『闘』などで、数々の文学賞を受賞。没後に刊行された『木』『崩れ』『きもの』で再び幸田文ブームが起きた。娘の青木玉、孫の青木奈緒も文筆家。