女優
京 マチ子
Kyou Machiko
つたない自分を自覚していたからこそ、
一生懸命やってきたんだと思います
2019年2月より「デビュー70周年記念企画 京マチ子映画祭」が開催されました。昭和の大女優の代表作が一挙に上映ということで、往年のファンから若い世代まで詰めかけて話題となりました。そして、その年の5月にマチ子は95歳で女優人生に幕を下ろしたのでした。
京マチ子は1924(大正13)年に大阪市で、本名矢野元子として誕生しました。幼くして父親が家族を捨て、母と祖母の手で育てられます。そんな貧しく孤独な少女時代、叔父が少女歌劇に連れていきます。それはまるで夢の世界。歌と踊りが大好きな元子は心を奪われたのです。
「小学校を卒業すると迷わず大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に入団しました」――京マチ子と母親が芸名を付けます。そして練習に励み、戦時下で大役をもらうようになります。
戦後、松竹歌劇団の幹部となったマチ子は、東京へ進出。ブギ・ブームを巻き起こし「ブギの女王」と呼ばれた歌手、笠置シヅ子に対し、マチ子は舞台でブギを踊りまくり「踊るブギの女王」と呼ばれ大人気に。そして、1949年に大映に引き抜かれ映画界入りをしたのです――「私はのんびり屋のうえ、井の中の蛙で大人の世界に飛び込むなんてだめな人。とても悩んだ末に、清水の舞台から飛び降りることにしました」
大映の期待の星で「レヴューの女王」として売り出されたマチ子は、5作目で『痴人の愛』に出演。若いナオミを中年男が調教しようとする、文豪谷崎潤一郎の問題作でした。
「あの頃は、もう夢中でしたから、精いっぱいぶつけてやってるという感じでした」――マチ子は身長160㎝と、当時としては大柄でその肉感的なボディ、蠱惑的な脚をさらし、鮮烈な印象を与えます。「男の思い通りにはいかないわよ」というナオミの台詞は、そのまま戦後の開放的な時代を体現。「肉体派女優」として脚光を浴び、男を翻弄する役柄で不動の地位を築くのです。
しかし、マチ子自身には葛藤がありました――「肉体派と呼ばれるのが嫌で、随分抵抗しましたが、どうしてもレッテルは付いて回るのです。そこからの脱出を考えているときに、素晴らしい作品に出合うことになりました」。それが、黒澤明監督の『羅生門』でした。マチ子は平安時代の貴婦人役という設定を考え、眉毛を剃り落として撮影所に現れ、監督を仰天させます。そして、夫の目の前で盗賊に犯される人妻役を演じ切り、作品はヴェネツィア国際映画祭でグランプリに輝きました。
さらに、『雨月物語』『地獄門』と続けて海外の映画祭で受賞。マチ子は「グランプリ女優」と呼ばれるようになります。それからも、喜劇、悲劇、時代劇から現代劇、文芸作品、スリラーと、変幻自在に演じます。
「当の私は意気地なしの引っ込み思案。つたない自分を自覚していたからこそ、一生懸命やってきたんだと思います」――真面目で誰よりも早く撮影現場に入り、役作りに没頭。「どんなに親しい友達が来ても絶対に雑談しない」と徹底していました。
私生活は、スキャンダルもなく編み物と釣りが趣味という地味なもの。映画が斜陽化すると、舞台やテレビで活躍し、82歳まで舞台に立ちました。「私には劇映画のスタアになれる自信がありません」という謙虚さで努力を重ね、大スターに上り詰めた見事な生涯でした。
1924~2019年。女優。大阪市生まれ。12歳で大阪松竹少女歌劇団に入団、娘役スターとして活躍。映画2本にも端役で出演。戦後、1949年に大映入社、大映の看板女優として活躍。『痴人の愛』『浅草の肌』『偽れる盛装』などで、肉体美をさらし「肉体派女優」として大人気に。『羅生門』『雨月物語』『地獄門』が海外の映画祭で受賞すると、「グランプリ女優」と呼ばれるように。多種多様な役柄で、ジャンルを問わず生涯100本の映画に出演した。