児童文学作家、画家、漫画家、挿絵画家、小説家
トーベ・ヤンソン
Tove Jansson
母が私におとぎ話をしてくれた日々に
戻りたい。そんな現実逃避でした
フィンランド生まれのムーミンは、日本でも懐かしのTVアニメでお馴染みです。そして今や北欧ブームもあって、雑貨やスイーツ、カフェなどで幅広い年齢層に絶大な人気です。そんな愛らしいムーミンには、実は作者トーベ・ヤンソンの苦悩が秘められていたのです。
トーベ・ヤンソンは、1914年にフィンランドのヘルシンキで生まれました。父ヴィクトルは彫刻家、母シグネは売れっ子のイラストレーターで、下に弟が2人います。収入の不安定な夫に代わって一家の大黒柱として働く母を見て育ったトーベは、物心ついた頃から絵を描くことが大好き。そして、母の膝に抱かれて物語を聴くのが大好きでした。
そんな環境の中でトーベが目指したのは画家――「自分の天職は芸術家以外ありえない」。そして、校則に馴染めず15歳で学校を中退後、雑誌の挿絵画家に。それから、ストックホルムの工芸学校と、ヘルシンキの画学校に学び、パリとイタリアにも留学。念願の油彩画家となります。
しかしトーベが25歳の時、第二次世界大戦が勃発。その頃、政治風刺雑誌『ガルム』に挿絵を描いていたトーベのサインに奇妙な生き物が添えられるように――「いつも怒っている醜い生き物」。それは、弟との口喧嘩に負けた腹いせに野外トイレの壁に落書きしたスノークという怒り顔の生き物と、叔父から「怖いお化けムーミントロールがいるぞ」と聞かされた話がもとになったものでした。言論統制下に戦争に怒りを表した、ムーミンの原点でした。
そして、アトリエを借りて家から独立したものの、戦争の激化につれトーベの色彩豊かな絵から色が失われていきます。「戦争はついに私からやる気すら奪ってしまった」――とうとう絵筆が握れなくなるのです。
そんな辛い現実から逃れるように、トーベは“奇妙な生き物”ムーミンの物語を書き始めます――「母が私におとぎ話をしてくれた日々に戻りたい。そんな現実逃避でした」。
終戦の1945年、戦時下に書き溜めた物語『小さなトロールと大きな洪水』を出版。そして、ムーミンはシリーズとなっていきます。最初は鼻が長く可愛げのなかった挿絵のムーミンは、平和が戻るに連れてふっくらと愛らしくなっていきます。
1954年、世界一の発行部数を誇るイギリスの夕刊紙『イブニング・ニュース』にムーミンの漫画連載が始まります。そして、40か国で転載されたことから世界的な人気を得るのです。しかし、有名になるにつれて煩わしいことも増えていきます。「もう一人の時間なんて絶対にないのだ」――暗澹たる思いのトーベを救ったのは、生涯のパートナーとなったグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラでした。
フィンランド湾に浮かぶ孤島に小屋を建て、夏の間2人で暮らすことにしたのです。「自由が最もすばらしい」というトーベは、安らぎを取り戻しますが、1970年の『ムーミン谷の十一月』がシリーズ9作目で最後となります。ムーミンママそのものだった最愛の母が亡くなり、ムーミンを書けなくなったのです。
個性的なキャラクターたちがぶつかり合い認め合い、試練に立ち向かう物語には、多様性と友情、愛と寛容、自由と平和の大切さが満ちています。そんなトーベの不滅の思いは、決して色褪せることはありません。
1914~2001年。児童文学作家、画家 。フィンランドのヘルシンキ生まれ。芸術一家で、2人の弟もそれぞれ写真家と漫画家・文筆家。10代で挿絵画家となる一方で、ストックホルムやパリで美術を学び、油彩画家となる。1945年から1970年まで「ムーミン物語」シリーズを発表、世界中で大人気に。日本では1969年に第1回のテレビアニメが放送された。児童向けだけでなく、油彩画、風刺画、小説など様々な分野で活躍。元市庁舎や病院の壁画も手掛けた。