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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

教育者

下田 歌子

Utako Simoda

まことに揺籃を揺がすの手は、
以て能く天下を動かすことを得べし

 卒業式で定番の女子学生の袴姿、女生徒の体育の授業、通信教育、小学生の英語教育、今では当たり前のことばかりです。これらを発案したのは、明治時代の女子教育の先覚者、下田歌子でした。しかし当時は、「珍妙」などと非難されたのです。

 歌子は幼名・平尾鉐で、安政元年(1854)に現在の岐阜県恵那市で、儒学者の家系に生まれました。幕末の混乱期、勤皇派の父親は藩から蟄居を命じられ、暮らしは困窮。その中で、鉐は幼くしてあらゆる書物を読破。和歌や俳句、漢詩を詠むいわば学問の天才少女でした。

 やがて明治維新となり、父は上京し新政府に仕えます。16歳の鉐もその後を追い上京。故郷を離れる時に詠んだ決意の歌です――「綾錦着て帰らずば三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ(出世してきれいな着物を着ることができるまでは帰郷しない)」

 明治5年、18歳で鉐の運命が拓けます。和歌の先生が鉐を宮中の女官に推挙したのです。でも維新前まで、女官は公家華族の娘に限られていたため、鉐は「田舎侍の娘ふぜいが身の程知らず」といじめられ、陰で涙を流すのでした…。

 それでも、和歌の才能を明治天皇の皇后に寵愛され、「歌子」という名を賜ったのです。才色兼備な鉐は「明治の紫式部」と称えられ、宮中で頭角を現します。

 しかし26歳の時、父親の決めた縁談で退官。相手は下田猛雄という時代に乗り遅れた剣士でした。酒乱で、胃病を患う夫を「嫁しては夫に従うべし」と辛抱強く看病。不遇な中で、活路を見出したのは自宅で開いた「桃夭女塾」でした。政府高官の妻や娘たちに和歌や習字を教え、源氏物語を講義し評判となるのです。

 明治17年、夫が亡くなると、華族女学校の教授と学監に就任。教壇に立つ美しい歌子は、女生徒の憧れの的となります。この時に考案した女学生用の海老茶袴は、やがて全国に普及しました。また、絵といろは、片仮名と英単語を組み合わせた『小学読本』を作りますが、残念ながら採用にはなりませんでした。

 明治26年、皇女教育の視察で渡英。英語を猛勉強し、通訳はいましたが、その人を通さずヴィクトリア女王との謁見を果たします。そして、欧米各国を視察した歌子は、上流階級だけでなく一般の女子も教育を受けていること、女生徒も運動することに驚くのです――「日本が一流の大国になる為には、上流階級だけでなく大衆女子教育こそ必要」

 明治32年、歌子は一般女子のための実践女学校(現在の実践女子大学)を創立。体育を取り入れたことはもちろん、手に職をつけるための女子工芸学校、勤労女子の夜間女学校、通信教育と、様々な形で女子教育に邁進します。赤ん坊を育てる女性の自立こそが社会を変える力になるという信念でした――「まことに揺籃(ゆりかご)を揺がすの手は、以て能く天下を動かすことを得べし」

 しかし、男尊女卑の時代、美貌で有能な歌子は攻撃の対象となり、明治40年には「妖婦下田歌子」という中傷記事を書きたてられます。渦中の歌子は、「毀誉褒貶は世の常」と、動じることはありませんでした。

 女子教育に生涯を捧げた歌子の口癖は、「教壇で斃れたら本望」。晩年は車椅子で登校し、83歳で亡くなる10日前まで講義を続けたのでした。

Profile

1854~1936年。教育者。現在の岐阜県恵那市で岩村藩士の家に生まれる。18歳で宮中に出仕。皇后から「歌子」の名を賜り、その才媛ぶりで「明治の紫式部」と謳われる。明治17年、華族女学校の設立に関わり学監に。明治26年、欧米を視察し一般女子教育の必要性を実感、実践女学校を創立。他にも様々な女子教育や社会活動を行い、女性の地位向上を目指した。