フランス王アンリ2世の王妃
カトリーヌ・ド・メディシス
Catherine de Medicis
私は今からこの国民たちを愛するでしょう。
そして国民も私を愛してくれますように
1533年10月28日、フランス王フランソワ1世の次男アンリ王子と、カトリーヌ・ド・メディシスの婚礼が執り行われました。2人は共に14歳。カトリーヌは莫大な持参金と千人もの従者を従え、イタリアから嫁いできました。イタリアルネッサンス花盛りのフィレンツェから、あらゆる職人を連れてきたのです。
カトリーヌは、フィレンツェの大富豪メディチ家(フランス語読みでメディシス)に誕生しました。しかし、両親はすぐに病没。カトリーヌは親戚の間や尼僧院で育ちます。文学、語学、芸術、哲学、自然科学まで幅広く学び、豊かな教養を身に着けます。複雑な環境で育ったことから、忍耐強い少女になりました。
「私は今からこの国民たちを愛するでしょう。そして国民も私を愛してくれますように」――カトリーヌは、すぐにフランス語を完璧に習得。しかし、夫アンリの愛を独占していたのは、19歳年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワチエでした。しかも彼女が宮廷を牛耳っていたのです。
世継ぎが出来ず辛い立場にあっても、「天気はいつか回復する」というメディチ家の教えを胸にじっと耐えます。そんなカトリーヌの快活さ、優美で威厳のある話し方、豊富な知識が周囲を魅了します。やがて、結婚10年目で念願の第一子を授かったのです(生涯10人の子どもを出産)。
1547年、夫アンリが王位を継承、カトリーヌは王妃となります。それでも、ディアーヌは依然として宮廷に君臨していましたが、1959年に運命が一転。余興の馬上槍試合で夫アンリ2世に相手の槍が突き刺さります。息絶えた夫に不滅の愛を誓うカトリーヌ――「炎は消えたりとも、涙の滴はまことに熱情を表す」。以後、喪服だけをまといます。
立場が逆転したディアーヌは慌てて退散。カトリーヌは、夫が愛人に与えたロワール地方のシュノンソー城や宝石類をわが手に取り戻したのです。「私は切ない思いをしていました。……自分の夫を愛する妻は、夫の淫売を愛せるわけがないのです」――ようやくカトリーヌは忍従の境遇から解放されました。
残された息子3人が次々に王位を継ぐと、カトリーヌは摂政となり、水を得た魚のように政治手腕を発揮します。しかし、国外ではたび重なる戦争、国内では王位争奪を背景にしたカトリックとプロテスタントの対立が激化。カトリーヌは自らを「平和のつくろい係」とし、国内外の和平交渉に奔走します。
けれども1572年、カトリーヌの奮闘空しく、カトリック教徒がプロテスタントを襲撃。「サン・バルテルミーの虐殺」と呼ばれる凄惨な事件が起きます。首謀者はカトリーヌとされ、暗黒王妃の烙印が! この背景には、「フィレンツェの商人女」などと陰口を囁かれ、外国人である彼女に責任転嫁をしやすかった事情があったとされています。
一方で、カトリーヌは様々な洗練されたイタリア文化をフランスにもたらしました。香水やパラソル、ナイフとフォークによるテーブルマナー。美食の数々やマカロン、アイスクリームなどのスイーツ類…。銀食器を並べた宴はさながら星がきらめく夜空のようであったそう。
「たくさんの不当な仕打ち」に耐え、「臣民すべての母でありたいという大きな願望」を貫いて、カトリーヌは乱世を生き抜いたのでした。
1519~1589年。フランス王アンリ2世の王妃。イタリア・フィレンツェの名家メディチ家に生まれる。14歳でフランスに嫁ぐ。26歳で王妃となり、40歳で夫が死去。以後、摂政として30年間君臨。イタリア料理をフランスに伝え美食の国にし、学問、芸術、建築にも造詣が深く、夫の愛人から奪い返したシュノンソー城を美しく改築。現在、世界遺産となっている