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時を創った美しきヒロイン

美術家、版画家、随筆家

篠田 桃紅

Shinoda Toko

墨に親しみ、墨になじみ、墨をたよりにし、
墨に誘われ、 操られ、惑わされ、
裏切られ、また墨に救われ

 2021年3月1日、美術家の篠田桃紅が107歳で亡くなりました。桃紅は墨による抽象表現者として活躍し、訃報は世界を駆け巡りました。「自分という存在は、どこまでも天地にただ一人」――道なき道を強い信念で切り拓き、美術作家としての地位を確立した稀有な存在でした。

 篠田桃紅は、1913(大正2)年、中国の大連で三男四女の第五子として生まれました。当時の地名にあやかり本名は満洲子、2歳の時に父の転勤で東京に移り住みます。父親は会社員でしたが、書や漢詩、和歌に秀で、満洲子も小さな頃からそれらの素養を身に付けます。

「初めて筆を持った時のことをはっきり覚えている」――5歳のお正月に兄や姉と書き初めをし、“満洲子は見込みがある”と父は書の手ほどきを開始。雅号を「桃紅」と、父が漢詩から名づけます。桃の花は紅い、李の花は白い、薔薇の花は紫、花はそれぞれ違って咲き、人も一人ひとり違うという詩です。

 その由来にふさわしく、桃紅は小さい時から、「わがまま、頑固、協調性なし、という子」。着物も女学校の頃から「縞や格子の柄が大好き」「花模様は似合わない」と頑なに信じ、若い娘はきれいな着物を着ればいいのにと周囲から嘆かれます。

 そんな桃紅は、共同生活には向かないと、結婚をせず自活を決意。父の猛反対を押し切って23歳で家を出て書を教え始めます。しかし、個性を重んじる桃紅は、生徒の書が自分に似ることに不満を抱き、「自分の制作を世に発表し、それで生活したいと希うようになっていった」

 そして24歳で、銀座の鳩居堂で初めての個展を開きます。当時の書は平安朝の名筆を写すことが主流。独創的な桃紅の作品は、根なし草と書道界から嘲笑されてしまいます。

 酷評に耐え、自分の道を進む桃紅はやがて、「書は、すでに作られた文字の中での仕事」に窮屈さを感じるようになり、「私の心のかたちを、見得るかたちにしたい」と、墨による抽象的な表現を目指すように。抑圧から解放された桃紅の筆がほとばしるように動き始めます。

 1956(昭和31)年、桃紅は単身渡米。アメリカ各地やパリに作品を送り巡回個展を開きながらニューヨークに滞在。「さまざまな人種、文化、習慣を持つ人々が集まり、違うことを面白がっているエキサイティングな街」で、日本とは真逆の価値観に大きな刺激を受けます。作品も国際的な評価を得、「抽象表現は自由である」と確信したのです。

 2年後、墨は日本の湿潤な風土にこそふさわしいと再確認し、日本で制作し世界で発表すると決め、帰国しました。そして、和紙に墨や金箔、銀箔、銀泥、朱泥などを用いモダンで多彩な作品を制作。また、建築家とのコラボで建物の空間を彩る大作を手掛け、リトグラフにも挑戦。さらに、エッセイも著し、孤高に生きる桃紅の言葉は、若い女性を惹きつけ、独特の美意識による凛とした着物の着こなしも憧れの的に。

「墨の 淡い 濃い にじみ かすれ。線の 重なり 広がり」に魅せられ「墨に親しみ、墨になじみ、墨をたよりにし、墨に誘われ、操られ、惑わされ、裏切られ、また墨に救われているうちに老いた。だが、まだ墨とのつき合いは終わらない」――ひたむきに墨と向き合い、自身の美学を貫いた生涯でした。

Profile

1913~2021年。美術家、版画家、随筆家。中国の大連で生まれ東京で育つ。父から書の手ほどきを受け、ほとんど独学で書を学ぶ。戦後、墨による抽象表現に向かい、日本の書壇と決別。1956年に渡米。ニューヨークに滞在し、個展を開き世界的な名声を得る。壁画や襖絵、リトグラフも制作。エッセイも多く著し、1978年の『墨いろ』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。映画監督の篠田正浩はいとこにあたる。