女流洋画家
ラグーザ・玉
Ragusa Tama
私はコスモポリタン的な性格で、
どこにでも順応できます
1933(昭和8)年10月26日、横浜港に1人の日本人女性が降り立ちました。彼女は、シチリア島に52年も暮らした欧米では有名な画家で、名前はラグーザ・玉。この2年前、木村毅による小説『ラグーザお玉』が新聞に連載され、祖国に帰ることのできない“望郷の画家”としてにわかに脚光を浴びていたのです。
ラグーザ・玉は、幕末の1861(文久元)年に、現在の東京タワーの近くで清原玉として生まれました。父親は増上寺の管理人で、料亭や花園を経営し、2歳上の姉がいました。玉は絵を描くことが大好きで、幼くして本格的に日本画を学びます。
明治10年初秋の夕暮れ、玉が縁側で花鳥画を描いていると、「いい絵ができますね」と話しかけられます。見上げると「着物に靴を履いた不思議な異人」でした。彼は玉の絵筆で、さらさらと人の顔を描きます。日本画と異なる写実的な画法に玉は目を見張ります。さらに、玉にあれこれアドバイスします――「随分と生意気な異人と思いましたが、本当に適切な批評であると分かりました」
後日、異人の素性が判明。日本政府が工部美術学校の教授として招聘したイタリア人彫刻家ビンチェンツォ・ラグーザだったのです。玉16歳、ラグーザ36歳、運命の出会いでした。やがて、玉はラグーザの彫刻のモデルとなり、絵を習い、彼が買い集めた骨董品の模写をするうちに、お互いに惹かれ合うように…。
「恋したふ君を思うてちよ鳥の鳴くこころねを誰れかしらめや」――玉はラグーザに思いを託した歌を贈ります。そして、2人は周囲の祝福を受けて芸術家同士で結ばれたのです。
しかし、工部美術学校が廃止となり、ラグーザは帰国を決意。1882年、ラグーザ夫妻に玉の姉夫婦が同行して日本を発ちました。
2か月近くかけて辿り着いたラグーザの故郷シチリア島のパレルモの美しさに玉は心躍らせます。青く澄んだ空、紺碧の海――「私はコスモポリタン的な性格で、どこにでも順応できます」。玉はさっそくパレルモ大学で美術を学びます。
流産や姉夫婦の帰国など、悲しみもありましたが、絵を描くことで乗り越えていきます。何よりもラグーザの大きな愛がありました――「彼は私の“先生”であり、また“父”であり“夫”であり、それから“男性”だったのです」。
そして、ニューヨークの国際美術展や、権威あるベネチア・ビエンナーレの婦人部門で最高賞を受賞。イタリア画壇の名花と謳われます。でもその名声は日本には届きません。
やがて、玉が66歳の時にラグーザが死去。「日本へ行きたかったなあ!」とつぶやいて…。独り身となった玉は、はるばるローマの日本大使館まで出向いて帰国の相談をします。しかし、「お前は日本人ではない」と「侮辱的な態度」で突き返されたのです。思わず涙がこぼれ、日本と絶縁を決意する玉――「私の死に顔を花で埋めてくれるのは、親切なシシリイ人でありましょう」
それでも玉が72歳の時、新聞連載で注目されたことや親族がシチリアまで迎えに来たことから、帰国の途を踏みます。日本では彼女を国民的ヒロインとして歓迎したのでした。
「日がな一日絵を描いていることが一番楽しい」――故国で穏やかな晩年を過ごした玉は、78歳で亡くなるまで絵筆を離しませんでした。
1861~1939年。日本最初の 。江戸生まれ。日本画を学び12歳で栄寿の雅号を得る。16歳でイタリア人彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザと知り合い、洋画を学び結婚。シチリア島パレルモに半世紀過ごす。数々の絵画展で受賞、富裕層から絵画の注文が殺到する。晩年は日本に帰国し没する。遺骨は東京とパレルモのラグーザのお墓に分骨されている。