小説家、随筆家
田辺 聖子
Tanabe Seiko
重いテーマをかーるく、ふんわりと、
おかしく書くってむつかしい
2019年に91歳で亡くなった作家・田辺聖子が終戦前後に記し、『十八歳の日の記録』と題した日記が遺族によって発見されました。そこには聖戦と信じて疑わない「純粋培養の軍国少女」でありながら、時には「若き日の豊かな、かがやかしい想い出は一つもなく、徒に工場の油と埃にまみれてしまうのか」という不安から、作家になりたいという夢まで真摯に綴られていました。
田辺聖子は、昭和3(1928)年に大阪市の福島区に生まれました。父親は、市電通りに面した写真館を営む二代目で、下に弟と妹がいます。一つ屋根に曾祖母、祖父母、叔父叔母、住み込みの従業員などが住む賑やかな環境で育った聖子は、「何が好き、といって、本ほど好きなものはなかった」。家中の本や雑誌、押し入れに貼ってある古新聞まで読み漁ります。小学生にして尾崎士郎の長編『人生劇場』やパール・バックの『大地』などを読了したのです。
やがて女学校に上がると、小説を書き始めます――「女学生の心の底には、いろんなごっちゃな考えが渦巻いている。それらが脈絡もなしに、ノートに書きつけられてゆく」
しかし、夢多き少女時代は戦争の激化で一変。樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)に入学した翌年の昭和19年1月、工場住み込みで飛行機の部品作りに学徒動員されます――「我々はただ、青春を祖国に捧げて働き抜けばいいのだ」。そして、6月1日の大阪大空襲の日。急ぎ家まで8キロ歩き、焼け跡で再会した母親は、聖子の大切な蔵書が灰になり、聖子のノートが入った手提げ鞄しか持ち出せなかったと詫びます。「私は何も言えなかった。鼻がじんと痛くなり、涙がぽとぽとと水槽の水の上へこぼれおちた」
間もなく迎えた敗戦の日。体調を崩した父親が病死。あえぎながらも聖子は希望を抱きます――「来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている」(1946年大晦日)
そして、大黒柱として19歳で金物問屋に就職。働きながら同人誌で研鑽を積み、夜間の大阪文学学校で学びます。その努力が実ったのは1964年、36歳の時。大阪を舞台に、男女の悲喜劇を描いた『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)』で芥川賞を受賞しました。
それからの活躍は目覚ましいものでした。月刊小説誌、週刊誌連載、新聞連載、単行本などを書きに書きまくります。しかし、純文学の芥川賞作家が大衆小説誌に発表したことで批判を浴びると、「重いテーマをかーるく、ふんわりと、おかしく書くってむつかしい。だからホントは中間小説、大衆小説のほうがむつかしいんですよ」ととぼけます。
自称「夢見児」の聖子は、ロマンティックな恋愛小説を大阪弁で紡ぎ続けます。そこに込められた思いです――「戦争を生き抜いた女性たちが、元気になる小説を書きたい」
38歳の時には開業医の川野純夫と結婚。先妻の子4人を含む11人家族で、「疾風怒濤の生活の中で膨大な仕事量をこなした」のです。恋愛小説以外でも与謝野晶子や杉田久女、小林一茶の評伝、『源氏物語』や『枕草子』などの数々の古典の小説化にも挑みました。生涯700冊以上も著した聖子は、色紙を求められるとこう書いています――「気張らんとまあぼちぼちにいきまひょか」
1928~2019年。小説家、随筆家。大阪市生まれ。多感な少女時代を戦時下に過ごし、戦後、本格的に作家への道を進む。1964年、『感傷旅行』で第50回芥川賞受賞。大阪弁でのロマンティックな恋愛小説、古典文学を題材にしたもの、歴史小説、作家の評伝、エッセイなど幅広く700冊以上の作品を著す。泉鏡花文学賞、女流文学賞、吉川英治文学賞など受賞多数。酒豪、スヌーピー大好き、宝塚歌劇ファンでも知られる。