日本画家
小倉 遊亀
Yuki Ogura
絵をかくことは勉強であり、
喜びであり、私のすべて
1999年2月、パリで日本画家小倉遊亀の個展が開かれました。この時、遊亀は104歳。展覧会の副題に「一世紀を貫く想像の息吹」とあり、驚きの長寿作家の作品は大いにパリの人々に受けました。モダンな画風の遊亀の作品は、「ピカソ ジャポン」とまで称賛されたのです。
小倉遊亀(旧姓・溝上)は、明治28(1895)年に滋賀県大津市で誕生。「亀が手足をゆったりと動かして遊んでいるような、おおらかな人生を」という願いを込めて父親が遊亀と名付けました。役人だった父親は事業家を夢見て旧満州に渡りますが、仕送りは途絶えがちに。母の手一つの貧しい暮らしで、女学校へは年中1枚の着物で通します。
小さな頃から絵を描くことが大好きだった遊亀は、教師に女子美術学校への進学を薦められますが、女子の最難関だった奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に進学。画家になるつもりはありませんでした――「あんな汚い格好の絵描きさんにはなりたくないと思っていた」
しかし在学中、図画の教授の影響を受け、遊亀は本格的に画家を志すように。首席で師範学校を卒業後、京都や名古屋で教師を勤めた後、絵を描く時間を捻出するために、横浜の女学校で非常勤講師の職に就きます。薄給の中、病身の母を抱え、アルバイトもして生活費を稼ぎ懸命に絵に励む遊亀の姿がありました。
そんな遊亀の絵は「誰にも上手いと誉められるが、ただそれだけ…」。行き詰まりを感じ、大胆にも25歳で日本画の大家・安田靫彦の門を叩くのです。なけなしの金で下着から着物、帯、傘まで新調して出向きます――「弟子入りを断られたら絵を捨てる、死に装束のつもりでした」
幸運にも安田の門下生となった遊亀は、絵の道に精進し、31歳で院展に初入選。37歳で日本美術院の同人に推挙、女性初の快挙でした。明るい色彩、斬新な画風で中堅の作家として活躍するようになった遊亀は、いつしか「狭っ苦しい心の窮屈さ」に悩むようなります。
そんな時に知り合ったのが、小倉鉄樹です。鉄樹は、明治維新の立役者山岡鉄舟の高弟で禅の老師であり、遊亀より30歳年上でした。やがて遊亀が43歳の時、2人は結婚。人気画家の不可思議な結婚は、新聞の号外まで出て大騒ぎとなります。
「絵を捨てる」覚悟の結婚でしたが、遊亀は初めて精神の充足を味わいます。そしてある日、鉄樹から「かあちゃん、絵は描かないのかい?」と訊かれたことで、再び遊亀は絵筆を持ったのです。穏やかな結婚生活で、遊亀はのびやかに自由に羽ばたいていきました――「自分を捨てきることは、全部を得ることなんです」
結婚生活は鉄樹の死で7年で終わりますが、同郷の小説家志望の東大生、典春を養子に迎えます。典春は就職し、結婚。4人の孫が生まれ賑やかになります。この頃、若い夫婦の姿『家族達』、母と子の買い物帰りの様子『径』など、微笑ましい家族の情景が次々に描かれました。
しかし、遊亀が97歳の時、典春が他界。それから5年間、遊亀は心を閉ざし絵に見向きもしませんでした。意欲を取り戻したのは102歳の時――「絵をかくことは勉強であり、喜びであり、私のすべて」
「まだまだ若造ですから」と発言する遊亀が天寿を全うしたのはパリ展の翌年、105年の生涯でした。
1895~2000年。日本画家。滋賀県大津市生まれ。父親不在で貧しい暮らしの中、援助を得て奈良女子高等師範学校国語漢文部に進学。首席で卒業後、教師をしながら画家を目指す。25歳で日本画の大家・安田靫彦に師事。1932年、女性で初めて日本美術院同人に推挙。1938年、結婚を機に鎌倉に居住し、画室を構える。1980年、文化勲章受章。大胆な構図、明るい色彩の斬新な画風で人気を集め、105歳で亡くなるまで絵筆を執り続けた。