作家 エッセイスト
森 茉莉
Mori Mari
「パッパ」。
それは私の心の全部だった
明治の文豪にして、軍医総監にまでなった森鴎外の長女・森茉莉が、1957(昭和32)年、『父の帽子』を上梓しました。鴎外を回想した随筆集で、54歳にして初めての本であり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。しかし、茉莉の私生活は令嬢育ちとは思えない貧しいものでしたが、それは“贅沢貧乏”という世界を醸し出していくのです。
森茉莉は、1903(明治36)年に現在の文京区千駄木で誕生しました。美貌の母・志げは鴎外の二度目の妻で、きょうだいに先妻との長男・於菟、弟・不律、妹・杏奴、弟・類がいます。鴎外は今で言うイクメンで子煩悩な父親でした。
そして、茉莉が5歳の時に幼い不律とともに百日咳に感染。奇跡的に茉莉だけが一命を取り留めます。それからの鴎外は、「よしよし、おまりは上等よ」が口癖となり茉莉をますます溺愛。茉莉も父を「パッパ」と呼び崇拝します――「“パッパ”。それは私の心の全部だった」。
やがて、女学校を卒業すると、鴎外は茉莉の結婚相手に仏文学者・山田珠樹を選びます。「パッパとの想い出を綺麗な筐に入れて、鍵をかけて」茉莉は嫁ぎます。17歳で長男を出産した翌年、夫が研究のために単身渡仏。すると、鴎外はいろいろ手を尽くし茉莉の渡仏も叶えたのです。
「私は巴里に浸っていた。……私は巴里の柔らかさの中で、夢を見るようにして、生きていた」――パリは茉莉に心地よい街でした。しかし、ロンドン滞在中に鴎外の訃報が届きます――「二晩寝ずに、哭いた」。深い喪失感を抱えながらも、夫婦でドイツ、イタリア、スペインなどを巡りヨーロッパの文化芸術に触れ造詣を深めていきます。
帰国後、次男が生まれますが、夫との軋轢から2児を置いて離婚。次に、東北帝大医学部教授と再婚、仙台で暮らしますが長続きしませんでした。実家で暮らしながら、仏文学の翻訳や劇評、随筆などで細々と収入を得ていきます――「孤独の中で自由が私を解き放し、もっと長い随筆を書いて見たい、小説のような文章も書いて見たいと、そんな夢を私は持ち始めたので、あった」
そして、妹の結婚、母の死、弟の結婚などから、38歳で浅草のアパートで独り暮らしを始めたのです。様々な人々が住むそこをアパルトマンと称し、「好きな本を読み、書きたい事を書いて、暮した」
戦後、疎開先から戻り、世田谷区のアパートを借ります。鴎外の著作権の期限が迫り、いよいよ自活の必要に迫られた茉莉は一時、雑誌『暮しの手帖』に籍を置き執筆に力を入れていきます。そして、1957年に『父の帽子』を発表したのです。
遅咲きで稀有な才能を開花させた茉莉は、次々とエッセイや小説を発表。男同士の愛を描いた『恋人たちの森』『枯葉の寝床』、父と娘の濃密な愛を官能的に綴った『甘い蜜の部屋』は、耽美的な名作でした。
そんな茉莉が暮らしたのは暖房もない一間のアパート。雑多な物に囲まれた暮らしでしたが、洋酒の空瓶もお菓子の空き箱も、茉莉には美意識にかなった美しい物ばかりでした。そして、「ほんものの贅沢は、贅沢な精神を持っていること」として、傑作『贅沢貧乏』を著します。
「幸福はただ私の部屋の中だけに」と独特の美学を紡いだ部屋で、茉莉は84歳の天寿を全うしたのです。
1903~1987年。作家。エッセイスト。東京生まれ。森鴎外の長女。仏英和高等女学校卒業後、仏文学者の山田珠樹と結婚、二児をもうけるが離婚。1957年、『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、以後作家として活躍。『恋人たちの森』(田村俊子賞)、『甘い蜜の部屋』(泉鏡花文学賞)、『贅沢貧乏』など著書多数。翻訳、演劇評、映画評、書評も手掛ける。晩年には歯に衣着せぬテレビ評『ドッキリチャンネル』で人気を博す。下北沢の喫茶店を書斎代わりにしていた逸話が有名。