社会奉仕家
北原 怜子
Satoko Kitahara
私は蟻の街が好きだから、
ここで働かせてもらっているのだ
敗戦後の東京、戦地から引き揚げたり家を焼け出されたりした人々が空き地などで身を寄せ合っていた頃。隅田川の川岸に“蟻の街”と呼ばれた一角がありました。蟻のように仲良くホームレス同士力を合わせようと住民が名付け、廃品回収で共同生活をする人々の集落でした。ある日、そこに21歳の北原怜子という場違いな令嬢が足を踏み入れたのです。
怜子は、1929(昭和4)年、東京の杉並区で誕生。父親は大学教授で、恵まれた環境の中で明るく育ちます。戦後は、社会の役に立ちたいと昭和女子薬学専門学校(現・昭和薬科大学)に進学。その頃、外出先で見た教会の神聖な雰囲気に心惹かれ、カトリックに入信します。そして、修道女を目指しますが、肺結核を発病。症状は治まりますが修道院行きを断念しました。
1950年、北原一家は浅草に移り住みます。怜子の姉の嫁ぎ先である大きな履物問屋の隣に家を新築したのです。ある日、店先に白いひげを生やした黒ずくめの外国人が訪れ、「カワイソウナ人ノタメ、オ祈リタノミマス」と布教して去っていきます。後日、その人は、蟻の街という所で支援活動をしているポーランド人修道士で、通称ゼノ神父ということを怜子は新聞記事で知ったのです。
「私もお手伝いがしたい」――怜子の新たな願いでした。それが叶ったのは12月初めの事。再びゼノ神父を見かけた怜子は雨の中を追いかけます。途中で見失いますが、怜子は独りで蟻の街に飛び込んだのです。そこには、粗末な小屋が並んでいるばかり。「私はなんて世間知らずだったのだろう…」――呆然とする怜子。そして、「何かしなければ」と、怜子は蟻の街に通い始めたのです。
怜子はまず子供達に勉強を教え、小さな子をお風呂に入れます。「一人一人が可愛くて、可愛くて、たまらない。でも、字の読めない子ばかり…」――小学校に行けば蔑まれ、泥棒扱いされる子供達は、すぐに怜子を味方として心を開きます。
しかし、子供達の夏休みの宿題がなんと海と山についてでした。怜子は海も山も縁のない子供達を箱根に連れていくことを決意。別荘を貸してくれる人が現れ、残るは交通費です。怜子自ら廃品回収をしますが足りません。そんな時、大量のミルクの空き缶の提供があり、夜通しリヤカーで運びます。実は怜子の父親が内緒で知人にお願いしたものでした。
無事、箱根旅行は実現。子供達は嬉々として山の芦ノ湖、海の小田原の絵と作文を発表しました。このことが伝わり、怜子は新聞で「蟻の街のマリア」と称賛されたのです。
しかし、結核が再発し療養中に症状が悪化。医師は、怜子の生き甲斐である蟻の街に戻ることを勧め、両親も同意します。そして、蟻の街で暮らし始めた怜子に笑顔が戻ったのです。「私は蟻の街が好きだから、ここで働かせてもらっているのだ。ただ、それだけで私はうれしい」
その頃、東京都はホームレス一掃で、蟻の街の焼き払いを計画。しかし、怜子が病床でまとめた子供達の作文集『蟻の街の子供達』が役人の心を動かしたのです。そして、好条件で代替地を提供。それを聞いた怜子は「もうこれでいいのね」とつぶやき、1958年1月23日、28歳で天国に召されました。怜子が子供達に遺したのは、笑顔と生きる希望、思いやりという大切な宝物でした。
1929~1958年。社会奉仕家。東京都で、北原金司経済学博士の三女として生まれる。1949年にカトリック信者となる。21歳でゼノ修道士と出会い、信仰に導かれ廃品回収業で生活する蟻の街で奉仕活動を開始。子供達の生活指導などを行い、自らも廃品回収をした。新聞で「蟻の街のマリア」と称賛されたが、28歳で病没。現在、蟻の街跡地は隅田公園となり観光名所となっている。