小説家・評論家
トニ・モリスン
Toni Morrison
自分が読みたい
作品がなかったから
1993年のノーベル文学賞は、アメリカの作家トニ・モリスンが受賞しました。黒人女性初のことでした。受賞スピーチでは、作家らしく言葉は崇高なものであり、生きる力を与える大切なものと語りかけます――「私たちは誰もが死にます。それが生命の意味かもしれません。でも私たちは言葉を使います。それが生きていく手段なのかもしれません」
トニ・モリスンは1931年に、オハイオ州ロレインで誕生しました。モリスンが生まれ育ったのは、南欧の移民や黒人など様々な人種の貧しい労働者が住む地域でした。南部ほどの激しい黒人差別はないものの、街に出れば暗黙の垣根がありました。
ある日、母親が映画館で白人専用席に「誰でも座れるのよ」と堂々と座ったと言い、卑屈になる必要はないと教えます。さらに親子四世代が健在で、曾祖母や祖父母、両親から、先祖たちが奴隷だったことや黒人たちに語り継がれてきた物語をいつも聴かされます。黒人の苦難の歴史を心に刻み付けて育ったのです。
やがて、成績優秀だったモリスンは黒人名門校のハワード大学、さらにコーネル大学大学院に学び、英文学修士号を取得。卒業後は、大学で教壇に立ちます。そして、1958年にジャマイカ出身の建築家と結婚しますが、第二子を身ごもった時に結婚生活は破綻。次男を出産後、生計を立てるためランダムハウス社で編集者として働き出します。
そして、モリスンは以前から「自分が読みたい作品がなかったから」と、小説を書き始めていました。「書かれるべき黒人の物語がなかった」からです。仕事と子育てに多忙な中で書き続けた『青い眼がほしい』を、1970年に39歳で出版。青い眼になれば幸せになれると切望した黒人少女の悲劇の物語でした。
モリスンがこの作品を書いたきっかけは少女時代の怒りでした。「小学校に上がった頃。友だちが青い眼がほしいと言った。私は、激しい嫌悪感を覚えた。誰が本物の自分であるより偽物であるほうがいいと彼女に感じさせたのか」――黒人であることに劣等感なく育ったモリスンにとって驚愕の出来事だったのです。
その後もモリスンは編集者を続け黒人作家の発掘に活躍――「黒人の声を出版するのが私の仕事」。やがて、三作目の『ソロモンの歌』を執筆中に「書くことが私の中心にあるんだと思い始めた。そこに私の心はある」と作家になることを覚悟したのです。
その編集者時代に、逃亡した女奴隷がわが子を奴隷にしたくないと殺害した昔の事件を発掘。奴隷は家畜同様で人間以下のため罪に問われず連れ戻されたのでした。モリスンはこの実話にインスピレーションを得て、『ビラヴド』を1987年に発表。元奴隷のセサが、自分で殺めた娘の霊に取り憑かれる物語はベストセラーとなり、翌年にはピュリッツァー賞を受賞します――「殺された子どもを想像することは、私にとっては芸術の根幹をなし、魂であり真の骨格になるものであった」
こうして、常に抑圧され歴史に埋もれた人々の姿を描き続けます――「作家という仕事を通して、ジェンダーによる差別、女性に対する差別、そして全面的に人種差別がはびこる世界で、いかに自由でいられるかを考えるのです」。それらの作品でノーベル文学賞を受賞したモリスンは、惜しくも2019年に他界しました。
1931~2019年。小説家・評論家。アメリカのオハイオ州ロレインで、労働者階級に生まれる。一族で初めて大学に進学し、ハワード大学とコーネル大学大学院で学び、いくつかの大学で教壇に立つ。1965年から19年間、大手出版社ランダムハウス社で働きながら、1970年に『青い眼がほしい』で作家デビュー。1987年出版の『ビラヴド』でピュリッツァー賞受賞。後に映画化もされる。女性差別、人種差別を問いながら執筆を続け、1993年に黒人女性初のノーベル文学賞に輝いた。