仁孝天皇の第八皇女
皇女和宮
Kazunomiya
惜しまじな君と民のためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも
1861(文久元)年10月20日、孝明天皇の妹・和宮親子内親王が14代将軍家茂に嫁ぐために京都を出立しました。お供の女官、警備や荷物を運ぶ人など総勢3万人で50㎞もの長さに及ぶ大行列。一行が通り過ぎるのに4日かかったと言います。
この前代未聞の豪華絢爛なお輿入れにもかかわらず、16歳の和宮は、
「惜しまじな君と民のためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」と、天皇と民衆のために東路を下りますという悲壮な覚悟をしていたのです。
和宮は、1846(弘化3)年に仁孝天皇の内親王として誕生しました。父君は和宮誕生を待たずに崩御しています。和宮6歳の時に、17歳の有栖川宮熾仁親王と婚約。やがて、教養豊かに育った和宮は、晴れの日を心待ちにしていました。
しかし、時代は風雲急を告げていたのです。和宮誕生の7年前には黒船が来航。その威容に徳川幕府は屈服します。この弱腰に尊王攘夷運動が台頭。幕府はもはや風前の灯でした。そこで幕府は権威を存続させるため、公武合体策で和宮降嫁を孝明天皇に迫ったのです。
驚いた和宮は「私は尼になってでも関東の代官のところにはゆかぬ」と固辞。しかし、執拗に迫る幕府に、孝明天皇はついに攘夷(鎖国)を守る条件で降嫁を認めたのです。
「天下泰平のため誠にいやいやの事、余儀なく御うけ申上げ候」――こうして、江戸城に入った和宮の前に立ちはだかったのが、姑の天璋院篤姫でした。13代将軍家定の御台所で家茂の義母にあたり、大奥に君臨していたのです。天璋院と初対面の場で、和宮は敷物もない下座に座らされます。将軍家茂より上座に位置する皇女にとってあまりの屈辱でした。
武家と公家の慣習の違いを「御風違い」とことごとく嘲笑されます。戸惑い、涙にくれる和宮…。そんな傷心の和宮の救いとなったのが家茂でした。同い年の家茂は、おっとりと優しい夫でした。忙しい公務の合間に足繁く和宮のもとを訪れます。
しかし、討幕運動は高まり、家茂は長州征伐に度々出陣。そして1866(慶応2)年7月、家茂の健康が悪化。21歳の若さで大坂城にて息を引き取ったのです。江戸城に亡骸となって帰ってきたその傍らには鮮やかな西陣織の織物が…。家茂が買い求めた和宮への京土産でした。
「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」――美しい織物もあなたがいなければ虚しいだけと、和宮は泣き崩れます。
翌年に15代将軍慶喜は大政奉還。しかし、新政府軍の勢い止まらず江戸総攻撃のため進軍を開始。その総大将はかつての婚約者有栖川宮熾仁親王でした。江戸城ではすでに武士は登城せず、残されたのは大奥の女性だけ。和宮は帰京を促されますが、懊悩しながらも「後世まで潔き名を残したく候」と、徳川家の嫁としての役割を果たす道を選びます。
いよいよ江戸は火の海寸前という中、和宮と天璋院は手を結びます。和宮は身を挺する覚悟で官軍に宛てて嘆願書を書きます。この「和宮哀訴状」と、天璋院が西郷隆盛に宛てた嘆願書が功を奏し、勝海舟と西郷の会談が実現。慶応4年4月11日、江戸無血開城となりました。
命がけで困難に立ち向い、過酷な運命を生きた和宮は、その願いにより徳川家菩提寺の増上寺で家茂と並んで静かに眠りについています。
1846~1877年。仁孝天皇の第八皇女で、母は権大納言橋本実久の娘、経子。孝明天皇の異母妹にあたる。有栖川宮熾仁親王との結婚間近に、公武合体で14代将軍徳川家茂に降嫁。結婚後4年目に家茂が大坂で死去し、静寛院となる。激動の幕末期、京都へは戻らずに徳川家存続のため朝廷に働きかけ、江戸無血開城に力を尽くした。維新後、明治10年に療養先の箱根で没する。