作家
山川 菊栄
Yamakawa Kikue
恋愛の自由と母性に対する選択権とは、
婦人解放の最も基礎的な二大要素であります
1947(昭和22)年、女性の地位向上や年少労働者の保護のために労働省婦人少年局が新設されました。その初代局長に就任したのが57歳の山川菊栄です。菊栄は戦前、社会主義の評論家として警察に監視されていた人物。それが戦後の民主社会で、行政に迎え入れられたのです。
菊栄は1890(明治23)年に東京に生まれました。母千世は水戸藩の儒学者の娘で、東京女子師範(現・お茶の水女子大学)一期生。「女はすべて文盲なるをよしとす」とされた時代に学問を修めた千世は、食肉加工の先駆者となる森田竜之助と結婚。一男三女をもうけ、子供たちには新聞や雑誌、本を自由に読ませ、男女差別なく育てます。
やがて、菊栄は英語を学びたいと女子英学塾(現・津田塾大学)に進学。宿題のためイギリスの女性解放論者の原書を読み、切実に共鳴します。「女の歩く道はいたるところ袋小路ばかり」の現実だったからです。
在学中のある冬、クリスマスに救世軍の手伝いで江東の紡績工場を訪問します。暖房もなく底冷えのする講堂に裸足で座るのは疲れ切った少女たち。牧師はその女工たちに「労働は神聖なもの」と説きます。思わず菊栄は恥と怒りに震えるのでした――「一晩中眠らずに働く少女たちの生活がなんで神の恩寵なのか。奴隷労働が神聖視されてよいのか?」
卒業後、個人教授や翻訳をしながら図書館や講演会に通い見聞を広めていきます。そんな大正5年、『青鞜』新年号に菊栄の投書が掲載されました。前号に載った編集長伊藤野枝の“廃娼運動は一律に考えるべきではない”という論文に切り込んだのです。菊栄は「封建時代そのままの遊郭制度、公然の人身売買、業者の搾取を放任すべきでない」という主張で、野枝を見事に論破。「自信のない言論は遊戯です」ととどめを刺します。理論家山川菊栄の25歳での論壇デビューでした。
その年の2月、平民運動会を覗いただけで菊栄は警察に連行。一晩留置されます。10歳年上の社会主義者・山川均も連行され言葉を交わします。そして、山川の仕事を手伝ううちに惹かれ合った2人は同年の11月、菊栄26歳の誕生日に結婚。
「社会主義者といえばごろつき同様に思われていた」時代、警察の尾行も付きましたが、勇気をもって愛を貫きます。しかし、間もなく菊栄の結核と妊娠が発覚。均の「我々の戦いは長いのだ。身体を治すことだけ考えてくれ」という励ましに別居して療養。長男を無事出産します。
菊栄は、病が癒えると本格的に評論家として活動。「敵に息をつかせる隙をさえ与えぬ」と驚嘆された歯切れのよい、明晰な論理で「平等は絶対です」と立ち向かいます。
そして、女には結婚・離婚の自由もなく、出産も国や家のためという抑圧の中、「恋愛の自由と母性に対する選択権とは、婦人解放の最も基礎的な二大要素であります」と唱えます。さらに、婦人参政権、労働条件改善、男女同一賃金、産休制度の確立などを、すでに大正10年に提言。女性へのすべての性暴力も人権侵害であると糾弾しています。
戦後、婦人少年局では、全国的な調査に着手。女性の地位向上のために貢献しました。「人類の黄金時代は、過去にはなく、未来にしかありえない」と、89歳で亡くなるまで社会の不公平と闘った生涯でした。
1890~1980年。女性解放思想家。東京生まれ。水戸藩の儒学者の娘である母親によって進歩的に育てられ、早くから良妻賢母教育に疑問を抱く。女子英学塾(現・津田塾大学)に学び、在学中から貧民街などで慈善事業を行う。26歳で社会主義者の山川均と結婚。社会主義の立場から評論活動を活発に展開。一貫して女性解放を訴える。戦後、労働省婦人少年局の初代局長に就任。働く女性の地位向上に尽力した。『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。