イングランドとアイルランドの女王
エリザベス1世
Elizabeth I
私はイギリスと結婚したのです
1536年5月19日、イギリス・チューダー朝国王ヘンリー8世の王妃アン・ブーリンが処刑されました。男子誕生を望んだのに、女児を生したアンに憎しみを募らせたヘンリー8世によって死刑に処せられたのです。この時、アンの遺児エリザベスはまだ2歳足らずでした。
エリザベスは、1533年9月7日に生まれました。母を知らないエリザベスは、各国の言葉に流暢な利発な王女に育ちます。そして、醜い権力闘争を見て育ったエリザベスが身に着けた、宮廷で生き抜く術は目立たぬこと。息をひそめて、学問だけを友として暮らします。
やがて、異母姉メアリー1世の治世になると、カトリックのメアリーはプロテスタント弾圧と虐殺に走ります。“ブラッディ・メアリー”と恐れられた所業でした。プロテスタントのエリザベスも反逆罪で収監され、その命は風前の灯に…。でも、「私にかけられた疑いからは、何も証拠を引き出せない」と毅然とし、結局、解放されました。
そのメアリー1世が没し、エリザベスに王位継承の順番が巡ってきたのは25歳の時。1558年11月17日でした――「これは神の御業です。私には奇跡のようにしか見えません」
政情も経済も混乱を極めていた時代ですが、エリザベスには自信がありました。長い雌伏の日々、英知を養っていたのです。まず、カトリックとプロテスタントに偏らない中道の宗教改革を目指します――「無理強いしたところで、信仰は変えられない」。そして、外交や内政問題、経済立て直しに手腕を発揮。地方巡幸にも熱心で、エリザベスは民の手を取り「この地を忘れませんよ」と話しかけ、人々の心を掴んだのです。
その女王に議会が嘆願したのは、結婚でした。エリザベスは左手薬指の戴冠式の指輪をかざしながらこう言います――「私はイギリスと結婚したのです」「神様が私の胎から生まれた子よりずっとこの国のためになる後継者をお授けくださいます」結婚にまつわる修羅場を見てきたエリザベスの信念だったのでしょう。
そんなエリザベスを脅かす災厄が降りかかったのは35歳の時。エリザベスの縁戚のスコットランド女王メアリー・スチュアートが、国内で支持を失いイギリスに亡命してきたのです。メアリーはイギリスの王位継承権を持つカトリックでした。
議会はメアリーの処罰を求めますが、エリザベスはためらいます。やがて、メアリーがスペインを後ろ盾に企てたエリザベス暗殺の確たる証拠が明るみに。ついに処刑されたのは、亡命から19年後のことでした。
メアリーを女王にという陰謀を潰されたスペインは、イギリス侵略のため無敵艦隊を差し向けます。エリザベスは野営地を訪れ力強く兵士を鼓舞――「わが身を戦いの真っ只中に置き、皆さんと生死を共にするためやってきました!」。結果は、弱小国家イギリスが、大国スペインが誇る無敵艦隊を撃破したのです。
また、エリザベスは、シェイクスピアに代表される文化・芸術の興隆にも力を注ぎました。恋もありましたが、国のために独身を貫き、黄金時代と呼ばれる社会を築いたエリザベス1世が、永遠の眠りについたのは、1603年69歳の時。最期に女王が後継者に指名したのは、メアリー・スチュアートの遺児でスコットランド王のジェームズでした。
1533~1603年。イングランドとアイルランドの女王。ヘンリー8世の次女。2歳で母アン・ブーリンが処刑。異母弟のエドワード6世、異母姉のメアリー1世に続き25歳で王位を継承。穏やかな宗教改革や産業振興に力を注ぐ。スペイン艦隊を破り、華やかな文化を興隆、黄金時代と呼ばれる治世となった。バージン・クイーン、グロリアーナ(栄光の女性)、グッド・クイーン・ベスなどの愛称がある。