女優
ジーン・セバーグ
Jean Seberg
映画は、何か前向きな、人びとを助けるもの
1958年、フランソワーズ・サガンの処女小説をハリウッドが映画化した『悲しみよこんにちは』が公開されました。すると、ヒロインのセシルを演じたジーン・セバーグのベリーショートヘアが人気の的に。セシルカットと呼ばれて大流行し、今でも不滅の人気です。そんな一世を風靡したジーンですが、「ジェットコースターみたい」と本人も驚くほどの数奇な生涯を辿ったのです。
ジーン・セバーグは、1938年にアメリカ中西部アイオワ州のマーシャルタウンで生まれました。毎日のように捨てられた犬や猫を連れ帰り、黒人が差別される本を読んでは憤慨する正義感の強い女の子でした。映画にも夢中で、口癖は「大きくなったら映画スターになるの」
高校時代、いくつかのスピーチコンテストや演劇フェスティバルで受賞したジーンは、その美貌もあって、地元で注目の存在となります。そして、オットー・プレミンジャーが監督する映画『聖女ジャンヌ・ダルク』のヒロインコンテストに推薦され、見事主役の座を射止めたのです――「世界で一番幸せな女の子です」
しかし、プレミンジャーは俳優を罵倒して支配するタイプの監督。ジーンもそのしごきを体験。デビュー作と、プレミンジャーによる2作目『悲しみよこんにちは』で、疲労困憊します――「どん底を見たわ」
しかし、ジーンの自信喪失と裏腹に、セシルカットで一躍世界の人気スターとなったのです。フランスでは、「映画の新女神、降臨」と称賛。ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)映画の新人監督ジャン=リュック・ゴダールから出演依頼がきます。彼の短編を観たジーンは、出演を承諾――「とても新鮮で、私にはまったく新しいものに思えたの」
相手役はフランスの人気俳優ジャン=ポール・ベルモンド。台本もなく、監督に怒鳴られることもなく、思うがままに演技を楽しんで2週間で撮影は終了。こうして出来たのが、ヌーヴェルヴァーグの名作となった大ヒット映画『勝手にしやがれ』です。ジーンが21歳の時でした。
人気絶頂となったジーンは、生涯30本以上の映画に出演。2番目の夫、フランスの外交官で作家のロマン・ギャリとの間に一人息子をもうけます。そして、生来の正義心から熱心に取り組んだのが、人道的活動。社会的弱者に援助を惜しみません。
そんな多額の寄付をした中に、ブラックパンサーがありました。FBIが警戒していた黒人解放武装集団です。FBIはジーンを危険分子と特定し、監視を開始。さらに、妊娠中だったジーンのおなかの子の父親はブラックパンサーの幹部というデマを流します。精神的に追い詰められたジーンは早産。女の子は2日間しか生き延びませんでした。
この絶対的な哀しみがジーンの心をゆっくりと崩壊させていきます。精神的に不安定となり、睡眠薬などの薬物摂取が増えていくのです。全財産も寄付で使い果たします。
1979年9月8日の夕暮れ、パリの大通りに駐車してあった車の中から毛布にくるまれたジーンの変死体が見つかります。死因は自殺と判定されます…。まだ40歳でした。
「映画は何か前向きな、人びとを助けるもの」という思いで夢を叶えたジーン。そのまばゆい輝きは、いつまでも色褪せることはありません。
1938~1979年。女優。アメリカのアイオワ州生まれ。17歳で『聖女ジャンヌ・ダルク』でデビュー。『悲しみよこんにちは』でのセシルカットが一世を風靡する。フランス映画『勝手にしやがれ』で大ブレイクし、ヌーヴェルヴァーグの女神とされる。慈善活動にも熱心で、FBIに危険分子とされ攻撃対象となるが、後にFBIは謀略を認めた。40歳で謎の死を遂げる。