オペラ歌手
三浦 環
Tamaki Miura
石にかじりついても、私の蝶々さんを生み出してみせよう
大正時代、日本初のプリマドンナ三浦環が、海外でオペラ『蝶々夫人』を演じ、大喝采を浴びていました。そして、1920(大正9)年4月、イタリア公演でのこと。作曲者プッチーニ本人が環の楽屋を訪れてこう言います――「あなたこそ私が思い描いていた蝶々夫人です!」
やがて、世界で最も権威のあるイギリスの音楽辞典『グローブ・オペラ辞典』に、ただ一人の日本人として掲載されることとなったのです。
三浦環は、1884(明治17)年、日本初の公証人・柴田猛甫の長女として生まれました。3歳から日本舞踊や琴、長唄などを習い、何不自由なく育ちます。天性の美声は、小さな頃から評判で、長じて、東京音楽学校(現・東京芸術大学)で声楽を学ぶことを目指します。しかし、父親は婚期が遅れると猛反対。
でも、環の決意は固く、父親が出した条件、陸軍軍医・藤井善一との結婚を承諾してまで音楽の道を選んだのです。校則で結婚は不可だったため、学校に内緒の別居婚でした。晴れて上野の音楽学校へ通う環は、当時珍しい自転車通学をします。その姿は「自転車美人」と新聞が書き立て見物人が集まる騒ぎに。すでにスターの素質が備わった環でした。
その環をドイツ人教授は「宝石的美声」と称賛。3年生で踏んだ歌劇の初舞台は大評判で、昭憲皇太后の御前演奏まで務めます。しかし、夫の藤井は環に家庭に入れと迫ります。
環は、「夫にかしずき、夫を幸福にすることは、女なら誰でもできること。音楽家として歌うことは社会を幸福にすることだし、日本の文化を高めること」と、離婚したのです。
次に環に求婚したのは、医学者・三浦政太郎でした。「芸術家は社会の花。芸術家を家庭に閉じ込めるのは冒涜であり、封建思想です」と熱く語る三浦に、環は感動。二人は、結婚しますが、新聞は「崇高な帝国軍人と離婚」「真面目な学究の徒を誘惑する悪女」と騒ぎ立てます。
1914(大正3)年、日本での騒動を逃れて二人はドイツへ留学します。しかし、第一次世界大戦が勃発したため、ロンドンへ避難。そこで、アルバートホールで歌うという幸運に恵まれたのです――「一等国でない日本婦人の身で、舞台に立てる感激がどんなに大きいことか」
舞台は大成功で、世界のプリマドンナとして名声を得ます。そして、舞い込んだ出演依頼は、プッチーニの『蝶々夫人』でした。準備期間はたった一か月。「石にかじりついても、私の蝶々さんを生み出してみせよう」――猛練習を重ね、日本舞踊を取り入れた振り付けで独創的に演じた初演は、絶賛の嵐でした。
そして、環は31歳でアメリカへ渡り、以来、アメリカを中心に世界中で2000回も蝶々さんを演じるという前人未到の偉業を成し遂げます。その間、プッチーニ本人に称賛されるという栄誉にも輝きました。
1935(昭和10)年、環は日本に永住帰国しますが、夫の政太郎はすでに亡く、時代は戦時体制に。それでも環は、軍需工場や戦地に赴き美声を披露します。敗戦後の1946年3月には、がんに侵された身で独唱会を開催。長く芸術に飢えていた聴衆は大感激したのです。環が旅立ったのはその2か月後のこと。
「歌で人を幸せにする」という信念を最期まで貫いた世界の歌姫でした。
1884〜1946年。オペラ歌手。東京生まれ。東京音楽学校で声楽を学び、在学中の自転車通学が話題となる。1915年ロンドンで世界デビュー。『蝶々夫人』で大絶賛を浴び、拠点をアメリカへ移す。以来、世界中で演じ2000回公演という大記録を打ち立てる。作曲をしたプッチーニ本人も絶賛。日本では、2度の結婚や凱旋公演時のイタリア人伴奏者との不倫騒動など、歌の評価よりもスキャンダルで騒がれた。