女優
ロミー・シュナイダー
Romy Schneider
100パーセント激しく生きてみるか、
それでなきゃ、生きてみるだけの価値がないか、
人生なんてどっちかね
1955年から1957年にかけて、ヨーロッパではオーストリア映画『シシー』3部作が毎年封切られ、空前の大ヒットとなりました。オーストリア皇妃エリザベートの若き物語で、演じたのは10代のロミー・シュナイダー。人気は過熱し、ロミーは生涯シシーと呼ばれるのです。
ロミー・シュナイダーは、1938年にドイツに併合されたウィーンで生まれました。父はウィーンの俳優一家出の美男俳優、母はドイツの人気女優。多忙な両親に代わって母方の祖父母のもとで育ちます。
その両親は、ロミーが幼い頃に離婚。やがて、14歳のロミーは決意します――「私はすぐにでも女優になりたい。そう、ママみたいに」
念願の女優デビューは15歳の時。母親が出演する映画でした。そして17歳で出演した『プリンセス・シシー』が当たり役となり大人気に。しかし、女優としての成長を望むロミーは「ほかの役柄が来なくなった。私はシシーなんかじゃない」と危機感に捉われます。その頃、母親が実業家と再婚。この継父がロミーのギャランティを横領し、シシー第二部、第三部の出演を決めてしまいます。
「私は女優として、自分の特長や個性を打ち出したいのだ。型にはまった役柄にとじこめられるのなんか、まっぴら」――シシー第4部作を断固として拒否しました。
そして、『恋ひとすじに』の撮影中、フランスの無名の新人アラン・ドロンと恋に落ちたのです。「私はパリへ足を踏み入れた。それは愛する人との熱愛を生きるためだった」――ロミーは20歳で初めて親に反抗し出奔。アランのもとへ走ります。
しかし、ロミーは役に恵まれず、アランは『太陽がいっぱい』で一躍人気スターに。そんな時に名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の舞台劇でアランの相手役に抜擢されます。そして、厳しい演技指導に耐えた結果、「生まれて初めて女優であることを実感した」と恍惚感を味わいます。
それからのロミーは、有名監督の映画に立て続けに出演。多忙な恋人同士はすれ違いの末、アランはナタリー・ドロンと結婚してしまいます。傷心した2年後、ロミーは14歳年上のドイツ人演出家と結婚し、長男ダヴィッドを出産。ベルリンで主婦業に専念し平凡な幸せに浸りつつも、「自分の個性を自分で圧殺しているのに気づいた」と、世間から忘れられかけていることに焦り出します。そんなロミーに救いの手が。『太陽が知っている』の主役アランが相手役にロミーを指名したのです。
元恋人同士という話題性もあり、映画は大ヒット。ロミーは見事フランス映画界に復帰しました。そして、人妻、娼婦、殺人鬼、ポルノ女優…、様々な役柄に臆せず挑戦。フランス映画の最高賞セザール賞に二度も輝き、トップ女優に昇り詰めます。
しかし、夫とは離婚、9歳年下の個人秘書と再婚し、長女サラが生まれますが離婚。さらに前夫の自殺や自身の病気に続き、14歳の息子ダヴィッドが悲惨な事故死を遂げたのです。不幸に打ちのめされ酒と薬物にすがりつくロミー…。それでも自身が企画した『サン・スーシの女』で迫真の演技を披露。「100パーセント激しく生きてみるか、それでなきゃ、生きてみるだけの価値がないか、人生なんてどっちかね」――壮絶な人生に力尽きたかのように心不全で急死したのは、まだ43歳の時でした。
1938~1982年。女優。ドイツ・バイエルン州のオーストリア国境に近い町で育つ。10代でオーストリア映画『シシー』3部作で大人気に。20歳でアラン・ドロンと婚約しパリへ。以後、パリを拠点に活躍。『太陽が知っている』『ルートヴィッヒ』『夕なぎ』『サン・スーシの女』など出演作多数。2009年フランスのネット調査で史上最高の女優に選ばれた。アラン・ドロンは別れても友人であり続け、ロミーの葬儀を取り仕切っている。