女優
グレタ・ガルボ
Greta Garbo
私はただ、
独りにしておいてと言っただけ
1924年、スウェーデン映画界の巨匠モーリッツ・スティルレル監督の『イエスタ・ベルリングの伝説』が封切られました。映画はヨーロッパでヒットし、この成功でスティルレル監督はハリウッドに招かれます。その時、ヒロイン役の18歳の新人女優グレタ・ガルボも伴いました。「私はすべての点で監督に感謝しなければならない」と述べたガルボは、伝説の大女優へ変貌を遂げたのです。
グレタ・ガルボ、本名グレタ・グスタフソンは、1905年にスウェーデンのストックホルムで貧しい家庭に生まれました。夢見がちな少女が興味を持ったのは演劇。時折、劇場の裏口で耳を澄まして想像力を膨らます少女グレタの姿がありました。
初等教育を終えると下働きに出ますが、14歳で父親が病死。デパートに職を得たグレタは、帽子や洋服のモデルを務め、さらに、王立演劇アカデミーに学びます――演劇には私の欲するもののすべてがあるの」。その頃に、スティルレル監督に見出され、監督の指示でグレタ・ガルボに改名。彼の映画に出演し、ハリウッド進出へつながったのです。
1925年、アメリカでMGM社と契約。歯列矯正とダイエットに励み、『イバニエスの激流』でハリウッドデビューを飾ります。当時はサイレント映画だったために英語が不得手でも問題なく、その演技力と北欧調の美貌、官能的な雰囲気で注目を集めました。それでも、友人に健気な手紙を出します――「こちらには私のようなタイプはいません。ですから、演技をしっかり学ばないと、愛想尽かしをされそうです」
そして、次々に出演を果たすガルボですが、スタジオに用意された何十枚ものドレスにうんざり――「ドレスの洪水…私が映画を離れている時は、着る物のことなど考えられない」。そうして、私生活はシンプルそのもの。ドレス、香水、毛皮、宝石を持たないスタイルを貫きました。
逆にそれが女性たちの憧れをかき立てます。カーディガンにスラックス、トレンチコートの無造作な着こなしが話題となり真似する女性が続出。さらに、つば広の帽子はガルボハットと呼ばれ一世を風靡しました。
また、試写会でインタビューされた際に英語下手を笑われたことから以後、一切の宣伝活動を拒否。授賞式やパーティーなど人前には出ず、これがガルボの神秘性を高め、「スウェーデンのスフィンクス」「神秘の女」などと呼ばれ崇拝されます。
1930年、『アンナ・クリスティ』でトーキー映画に挑戦。「グレタがしゃべる」と宣伝されましたが、彼女のハスキーで低い声、スウェーデン訛りは神秘のイメージにぴったりで、ますます人気を高めました。
そして、「私は独りになりたい」の名台詞がガルボの代名詞となりますが、本人は「私はただ、独りにしておいてと言っただけ」と否定。
魔性の女、高級娼婦、貴婦人、スパイ、女王…、様々な役柄を難なくこなし、眼差しで演技をすると称えられますが、1941年36歳での『奥様は顔が二つ』が最後の出演作となります。「ありふれた役をやってもつまらない」というガルボにとって、その後、納得できる作品に巡り合うことはなかったのです。
ニューヨークで隠遁を続け、「私は漂っているようなものです」と表現したガルボは、ミステリアスな存在のまま84歳で生涯を終えました。
1905年~1990年。女優。スウェーデンのストックホルム生まれ。本名グレタ・グスタフソン。デパートのPR映画に出たことがきっかけとなり、映画デビュー。世界中で発音しやすいようにとグレタ・ガルボと命名。ハリウッドに渡り、たちまち、MGM社の看板スターとなる。眼差しで演技をすると称えられ、数々の映画に出演。アカデミー賞に3回ノミネートされる。代表作に『肉体と悪魔』『アンナ・カレーニナ』『椿姫』『ニノチカ』など。人前に絶対に出ず、神秘のベールをまとったまま36歳で引退。永遠の伝説的女優として崇拝されている。