水泳選手
前畑 秀子
Hideko Maehata
この苦しさに勝たなくては、
日本中の笑いものになってしまう
「前畑がんばれ! 前畑がんばれ!前畑がんばれがんばれ!……」――1936(昭和11)年8月11日の真夜中、NHKのラジオからアナウンサーの時ならぬ絶叫が流れました。この日は、ベルリンオリンピックの女子平泳ぎ200mの決勝戦。日本から22歳の前畑秀子が出場していたのです。この実況に日本中が手に汗握り大興奮しました。
前畑秀子は、1914(大正3)年に和歌山県の橋本町(現橋本市)で、豆腐屋を営む家庭の5人兄弟の2番目、一人娘として生まれました。夏になると町を流れる紀ノ川で、町中の人が泳ぎます。秀子も、泳ぐことが人一倍大好きな少女でした。
尋常小学校4年になると、水泳部ができ秀子は最年少で入部します。プールは川に杭を打ち込み、縄を張った天然プールでした。部員はまず泳ぎの種類を決めなければなりません。「なんときれいで、女らしいおだやかな泳ぎ方」――秀子が選んだのは平泳ぎでした。
秀子は天性のスイマーでした。先生がストップウォッチが壊れたかと思うほど次々に記録を更新。全国大会に出場すれば日本記録を更新していきます。けれども、つらい練習に泣きそうになって帰ることも。疲れていても家業の手伝いもしなければなりません。そんな秀子に母親は言い聞かせます。「自分でやり始めたことは、最後までやり通しなさい。水の中で泣いてもいいから、苦しみに負けないでがんばりなさい」。
しかし、義務教育は小学校6年まで。進学などかなわぬ夢でした。「もう水泳はできないんだ」とさみしく諦める秀子でしたが、校長先生の計らいで高等科に進学。さらに15歳で名古屋の椙山高等女学校に特待生として編入。「人間は、何事も全力を尽くしていれば、自然に進む道が開ける」――この思いは秀子の一生の支えとなりました。
そんな17歳の時、母親に次いで父親も亡くなるという悲劇が秀子を襲います。家族のために涙でにじんだ退学届けを出す秀子…。しかし、すでにオリンピック選手の候補となっていた秀子は、みんなの支援で学校に戻ることができたのです。
1932(昭和7)年8月、念願の第10回ロサンゼルスオリンピックに出場した秀子は、女子200m平泳ぎで0・1秒差で銀メダルを獲得。「全力を出して戦えたことに、私はこの上ない満足感と嬉しさを感じました」
しかし、意気揚々と帰国した秀子を待ち受けていたのは予想もしない言葉でした。「なぜ金メダルを取ってこなかったんだね。次は絶対に金メダルを取ってくれ」
すっかり引退を決意していた秀子は、その期待と重圧の中、再び次を目指したのです。1日、2万mを目標に泳ぎ猛練習をします――「あまりの苦しさに、泳ぎながら何度も泣きました。この苦しさに勝たなくては、日本中の笑いものになってしまう」
そうして迎えたベルリンオリンピック。日本中から「死んでも勝て」という電報の山に悲壮な覚悟の秀子と、ヒトラーの期待を背負ったドイツのゲネンゲルがデッドヒートを演じました。結果は0・6秒差で秀子が優勝! 日本女性初の金メダルです。
試合後、秀子とゲネンゲルは笑顔で握手してお互いを称えあいました。この様子は、ナショナリズムの壁を軽やかに超えた感動の名シーンとして今も語り継がれているのです。
1914~1995年。水泳選手。和歌山県生まれ。幼少の頃から紀ノ川で泳ぎ、小学校5年で学童新記録を出す。15歳で汎太平洋オリンピック100m平泳ぎで金、200m平泳ぎで銀メダル。16歳で名古屋の椙山高等女学校に編入。1932年のロサンゼルスオリンピックで銀メダル。1936年のベルリンオリンピックで金メダル。引退後、医師と結婚し兵頭の姓となる。母校の水泳指導やママさん水泳教室などで、水泳の普及に尽力した。