俳人
杉田 久女
Hisajo Sugita
自分の生活にふれ、目に見、耳にきいた事、心の叫びを作句すること
谺して山ほととぎすほしいまゝ
昭和5年、福岡と大分の県境にそびえる霊峰英彦山に、着物に草履のまま登る女流俳人杉田久女の姿が度々見うけられました。幾度も登った末、ほととぎすの鳴き声だけが「じつに悠々と又、切々と、自由に――」
山にこだまする様を冒頭の一句に完成し、新聞社主催の新日本名勝俳句に応募。翌年、10万句以上寄せられた中から見事金賞に輝きます。
久女は、本名赤堀久として1890(明治23)年に、高級官吏であった父親の赴任地鹿児島で誕生。その後、沖縄や台湾で、何不自由なく育ち、やがて、お茶の水高等女学校を卒業。名門女学校出の才媛に、多くの良縁が舞い込んできます。
そんな久女が、両親の反対を押し切って選んだのは、杉田宇内でした。
宇内は、東京美術学校出の洋画家で、自分も絵心のあった久女は、芸術家との詩的な愛を夢想したのです。そして、宇内は福岡県小倉の旧制中学の美術教師として赴任します。
しかし、結婚後、宇内は絵筆を持つことなく、一介の教師に甘んじます。しかも、口うるさい夫になっていくのでした。二人の娘も生まれますが、暮らしはつましく、久女の夢は失望へと変わっていきます。
「もっともっと貧しくてもよいから、意義のある芸術生活に浸りたい」――そんな鬱屈した日々、久女の実兄が転がりこんできます。その兄から俳句の手ほどきを受けた久女は、26歳で俳句に夢中になるのです。
俳壇の巨星、高浜虚子が主宰する俳誌『ホトトギス』の台所雑詠欄に投句を始め、5句が掲載されたのは、大正6年のことでした。以後、久女は虚子の信奉者となっていきます。
花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ
花見から帰宅して着物を脱ごうとして、色とりどりの腰紐がまとわりつく様を詠んだ代表作は、大正8年の作。虚子に「清艶高華」と評され、その才能が花開いていくのです。
しかし、女の務めは家事育児という時代。句作に打ち込む久女は周囲に奇異に映ります。家事をしない悪妻と噂され、夫はますます不機嫌に。久女が離婚を望んでも、「子供を殺して自分も死ぬ」と宇内に脅され、やむなく離婚をあきらめます。
足袋つぐやノラともならず教師妻
家庭を捨てるヒロイン、イプセン作『人形の家』のノラになりきれない自分を詠んだ久女は、俳句に心の叫びを託していくのです――「自分の生活にふれ、目に見、耳にきいた事、心の叫びを作句すること。」
久女を慕ってくる後輩には丁寧に指導し、的確な論評をして励まします。昭和9年には『ホトトギス』の同人に昇格。その喜びもつかの間、2年後に久女は突然、虚子から同人を除名されます。句集の出版も阻まれます。あまりに一途なまっすぐな久女の性格が疎まれたとも言われていますが、未だ理由は不明です。
そして、失意の中で孤立したまま体調を崩し、入院中の昭和21年1月。食糧難による栄養障害がもとで亡くなります。55歳でした。
「句集を出してほしい。死んだ後でもいいから」――久女と心を通わせることのなかった宇内ですが、妻の原稿をすべて保管。それを、長女の石昌子が、句集にして刊行。俳句にひたむきに生きた久女の句が、後世に輝き続けることとなったのです。
1890~1946年。俳人。お茶の水高等女学校卒業後、杉田宇内と結婚。九州小倉で美術教師となった宇内に伴い生涯小倉で過ごす。兄より俳句の手ほどきを受け、高浜虚子主宰の『ホトトギス』に投句。やがて虚子に称賛され、天才と謳われる。自身で女性のための俳誌『花衣』を刊行したり、随筆や短編も多く著す。しかし、虚子に突然破門され、不遇のまま55歳で亡くなる。