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時を創った美しきヒロイン

バイオリニスト

小野 アンナ

Ono Anna

私はちょうど
花屋さんのようでしょう!

  戦前から戦後の激動の時代に、日本に西洋音楽を根付かせるために活動したロシア人音楽家がいました。その人は小野アンナ。彼女が著した『ヴァイオリン音階教本』は今も優れた教本として使われています。

 小野アンナ、旧姓アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワは1890年に帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクで3姉妹の末っ子として誕生しました。父親は官吏、母親は貴族出身で、コンセルヴァトワール(帝室音楽院)で声楽を学んだ歌手。しかし結婚後、母親は歌を断念。道半ばだった夢を3姉妹に託します。長女マリアにピアノ、次女ワルワラに絵画、三女アンナにピアノとバイオリンを習わせ芸術家に育て上げます。

 バイオリニストとなったアンナは、やがて、日本人留学生小野俊一と出会い恋に落ちます。裕福な家に生まれた俊一は、ロシア経由でドイツへ留学する旅路で第一次世界大戦が勃発。やむなくペテルブルクの大学で動物学を学んでいたのでした。

 しかし1917年、ロシア革命の波が押し寄せます。日本大使館員が引き上げた直後の1918(大正7)年2月24日、アンナと俊一は2人だけで結婚。その足で日本へ逃亡したのです。シベリア鉄道での道中、「他の道は考えられなかった」と家族に電報を打ちます。アンナの家族も、ロシア人の妻を伴って帰国した俊一の家族も仰天の出来事でした。

 そして異国での生活に、あまり不自由さを感じなかったアンナが、一番悲しんだのは「私のまわりにあんなにも満ち溢れていた音楽が、日本にはない」という現実。日本人は西洋音楽に馴染みがなかったのです。 「基礎から正しい音楽教育の普及をしなくてはいけない。年齢も早いほどいい」――さっそくアンナはバイオリン教室を開きます。来日の翌年には長男俊太郎が誕生。俊太郎にもバイオリンの英才教育を施します。しかし、14歳でアメリカ留学を目前に急性盲腸炎で急逝したのです。

 それからは、雨の日も風の日も欠かさず多摩墓地へ通い続けるアンナの姿が…。周りが心配すると「俊ちゃん淋しがります」と応えるのでした。そして、気持ちのすれ違ったままアンナと俊一は離婚。でも、「憎しみ合ったわけではない」と、アンナはその後も“小野アンナ”として活躍を続けます。鷹揚な俊一は「アンナさんは生まれ故郷を遠く離れているのだから不幸になってはいけない」と、後には俊一の後妻と息子と共に一つ屋根の下に暮らします。 「ミューズの神は、その度に幸福と感謝の喜びを与えて下さるのです」――戦時中には外国人として迫害を受けるなど、様々な苦難にもなおアンナには音楽教育という使命感がありました。アンナは子供たちの個性を大切にし、演奏家、音楽教育者などそれぞれの道に導きます。 「私はちょうど花屋さんのようでしょう!」「地上にまかれた数多くの種に、せっせと私は肥料や水を与えます。自分の力で吸収した種はやがて多種多様の美しい音楽を聴かせてくれます」――そして、世界的に有名な諏訪根自子、巖本真理、前橋汀子などが巣立っていきました。

 1958年に俊一を後妻と共に看取った2年後。ソ連が亡命者の帰国を認めたため、アンナは姉の待つ故国へ出航。ソ連でも音楽教師を続けたアンナは、89歳でミューズに見守られた生涯を終えたのでした。

Profile

1890~1979年。バイオリニスト。帝政ロシア、サンクトペテルブルク生まれ。小さな頃からピアノとバイオリンを習い、帝室音楽院でバイオリンを学ぶ。28歳で小野俊一と結婚、ロシア革命から逃れ日本へ。日本でバイオリンの早期教育を目指しバイオリン教室を開き、ピアノも教えた。戦後は武蔵野音楽大学の教授となり桐朋学園でも教え、勲四等瑞宝章受章。日本バイオリニストの生みの母と呼ばれた。俊一の姪にオノ・ヨーコがいる。