大英帝国女王
ヴィクトリア女王
Queen Victoria
私は全力をあげて国に対する義務をはたそう
1819年5月24日、イギリス王室に1人の姫君が誕生しました。父親は国王ジョージ3世の4男ケント公で、多額の借金を抱え兄達の厄介者となっていた王子。「あなたの娘は偉大な女王になる」という占い師の予言に一縷の望みを託し、ドイツ貴族の未亡人と結婚。そして生まれた女の子は、アレクサンドリーナ・ヴィクトリアと名付けられました。
そのヴィクトリアが生後8か月で父親が他界。「この子は私の希望です」――母親のケント公妃は娘だけを支えに異国の王室に留まることを決意。放埓なイギリスの王侯貴族に染まらないようにと、寝室を一緒にして娘を監視します――「兄弟、姉妹も友達もなく、父さえなく、私の子ども時代はきわめて不幸であった」
やがて、ヴィクトリアの伯父やその子たちが次々に亡くなり、18歳を迎えた時、王位を継承したのです。身長145センチの小柄なヴィクトリア女王は堂々と威厳を示し戴冠式に臨みました――「私は全力をあげて国に対する義務をはたそう」
即位は、母親からの巣立ちでもありました。寝室を別にし、母親の同席なしに大臣との謁見をこなします。そんな時、ドイツから母方の従兄弟で同い年のアルバートが再訪。初めて出会った17歳の時に、「とてもハンサムで、目は大きく青くて、美しい鼻ときれいな口をしている。さらに賢くて知的だ」と日記に記した初恋の相手でした。
2人はすぐに意気投合し、「私をこの上なく幸福にしてくれるあらゆる素質を備えている」アルバートに迷わず求婚。周囲の政略結婚の画策を退け、愛を貫いたのです。結婚式でヴィクトリアは純白のドレスを装いました。これが評判となり、それまで様々だったウェディングドレスの色が白に定着していったのです。「アルバートに導かれるのはなんと素晴らしいこと!」――しかし、アルバートは重臣や国民から「外国人」と疎まれ、孤独で居場所がありませんでした。
その窮地を救ったのが女王の出産ラッシュでした。2人は仲睦まじく、次々に4男5女を授かります。懐妊・出産で忙しい女王を補佐し、政治能力に長けたアルバートが真価を発揮。二人三脚で大英帝国の繁栄を築きます。そんな女王一家の幸せな姿は国民にも大人気に。それまで王族は放蕩三昧と悪評だったのが、愛を大切にする家族の理想像とされたのです。
ところが1861年、アルバートが急死。最愛の夫を喪ったヴィクトリアは泣き崩れます――「42歳で傷心の未亡人となってしまいました。私の幸せな人生は終わりました」。この日からヴィクトリアは喪服に身を包み引きこもり状態になります。
熱意を傾けたのは、亡き夫への愛の証としてのアルバート記念像、ロイヤル・アルバート・ホールなどの建立でした。しかし喪に服している間、ヨーロッパには様々な争い事が勃発。ヴィクトリアは悲しみから立ち上がり、君主としての力を揮います――「イギリスは大国としての地位を放棄したわけではないことを世界に知らしめなければならない」
即位した時は可憐な少女だったヴィクトリアも、「鉄の筋金が通っている」剛毅な女王として64年近く大英帝国に君臨しました。「私はまだ死にたくない。まだまだ差配しなければならないことがある」と言い残して亡くなったのは81歳の時でした。
1819~1901年。大英帝国女王。わずか18歳で即位し、一目惚れした従兄のアルバートと20歳で結婚。4男5女に恵まれ、子供たちは欧州各国の王侯貴族と結ばれ「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。42歳でアルバートが急死、以後喪服だけを着用。領土を拡大し「日の沈まぬ国」とされた大英帝国を築く。その華やかな時代の文化はヴィクトリア朝様式と呼ばれている。