ダンサー、歌手、女優
ジョセフィン・ベイカー
Josephine Baker
この世にはたった一つの人種しか存在しない。
それは人間という種
1925年10月2日、パリのシャンゼリゼ劇場にアメリカの黒人レビュー団が初登場しました。その中でひときわ注目を浴びたダンサーが、おどけた表情で溌剌と身体を揺らす19歳のジョセフィン・ベイカーでした。さらに終幕、ペアで裸体に近い衣装でエネルギッシュに踊り、観客の度肝を抜いたのです――「舞台に上がると、狂気に取り憑かれたの。何も見えないまま、オーケストラだって聞こえないまま、私は踊った」
ジョセフィン・ベイカーは、1906年、アメリカ中西部セントルイスのスラム街で生まれました。父親は家族を棄て、母親はジョセフィンを虐待し幼い時から働かせます。黒人差別も激しく「ひどいところだった」という中、自己流の歌とダンスで身体を動かしている時だけが現実を忘れられるのでした。ここではないどこかに自分の幸せがあると信じて13歳で家出をします。
やがて、黒人劇団に潜り込み全米を回るうちにニューヨークでダンサーとして注目されるように。そして、パリ行きのチャンスを手に入れたのです。一夜にしてパリを席巻したジョセフィンの名をさらに高めたのが、翌年のバナナの腰飾りをまとって踊った伝説のバナナダンスでした。黒いヴィーナス、ジャズ・クレオパトラなどとパリが賛美しました。
また、歌も大ヒットし、人形や香水などのジョセフィングッズも飛ぶように売れます。そんなジョセフィンが何よりもパリで感動したのは人種差別のないこと。レストランでも自由に入ることができたのです――「パリで私は自由なんだって感じた。それでも、アメリカ人の訛りが聞こえてくると、恐怖に囚われた」
1935年、里帰り公演で10年ぶりに帰国しますが、故郷に錦のはずのジョセフィンが受けたのは屈辱的な差別でした。ホテルはどこもお断り。マスコミからは袋叩きに。「アメリカは自分の娘すら受け入れようとしない」と、涙が頬を伝います。「特定の色をした人間にしか自由をくれない自由の女神像より、何も約束しないエッフェル塔のほうが好き」――祖国から否定されたジョセフィンはフランス国籍を取得。やがて、人種差別撤廃運動にのめり込んでいくのです。第二次世界大戦時には、人種差別を掲げるナチス相手にレジスタンス運動を展開。戦後は、アメリカの公民権運動を率先します。
そして、南仏に購入したミランド城を舞台に理想郷創りに邁進。観光農場にし、日本人2人を含む12人の孤児を迎え養子にします。「虹の一族」と名付けた様々な人種、宗教が混合した家族で、皆で偏見なく暮らそうという壮大な計画でした――「この世にはたった一つの人種しか存在しない。それは人間という種」
そんな夢の実現には膨大な資金が必要です。そのため、人権運動を兼ねた公演で世界中を回ります。アメリカ公演では客席に黒人を入れました。しかし、1968年に破産。居場所を失った一家に手を差し伸べたのはモナコのグレース王妃でした。
その後も養育費捻出のため、舞台に立ち続け、円熟味の増したパフォーマンスで観客を魅了します。1975年、デビュー50周年のレビューが開幕。チケットは1ヵ月先まで完売でした。「私は舞台の上で死ぬかもしれない」と初日の大成功に満足したジョセフィンが息を引き取ったのは、間もなくのことでした。
1906~1975年。ダンサー、歌手、女優。アメリカ・セントルイスで生まれる。13歳で家出、ニューヨークでミュージカルに出演し、19歳でパリへ。黒人レビューで爆発的人気となりブームを巻き起こし、映画にも出演。戦時中はレジスタンス運動に活躍、レジョン・ドヌール勲章を授与される。アメリカでは人種差別撤廃運動を展開。FBIの監視対象者となる。人種・国籍の異なる12人の孤児を養子にし、人種調和の理想を目指す。パリデビュー50周年公演の開幕直後に急死。葬儀は大々的な国葬となり著名人を始め多くの人々が参列した。