産科医
楠本 イネ
Ine Kusumoto
女の私が医者になれば、多くの母子の命が救えるはず
1823(文政6)年、27歳のドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがオランダ商館の医師として長崎に派遣されました。明治維新の45年前で鎖国令の中、長崎の出島だけはオランダ商館関係者の居留が認められていました。西洋医学の最新知識を持ったシーボルトは、特別な計らいで出島から外出を許可され、日本人の治療や鳴滝塾で医学の講義を開始。やがて遊女たきを見初め、内縁の妻とします。
そして、1827年に娘が誕生。シーボルトの日本語を当て、失本(しいもと)イネと名付けます。間もなく、任期を終えたシーボルトは、愛する妻子との3年後の再会を約束して離日することに。しかし、帰国船から国外持ち出し禁制の日本地図などが見つかったことで、シーボルトは永久に国外追放となってしまうのです。
わずか2歳で実父と生き別れになったイネは、たきの嫁ぎ先で穏やかな養父のもとで育ちます。幼い頃から読み書きに興味を示し、寺子屋では人一倍物覚えが早いイネでした。そして、〝もっと学問がしたい。オランダ語を覚えてお父様に手紙を書きたい〟という思いが募るように。
しかし、たきは「おなごに学問はいらぬ。針仕事が大事」と、平凡な女の幸せを望みます。イネは「こんな異人の娘をもらってくれる人などいない」と反発。差別的な視線を受けて成長してきたイネは、自分の宿命を悟ったのです――「私の生きる道は学問しかないのです。お父様のような医者になりたいのです」
向学心に燃えるイネは、14歳の時、1人で海を渡り四国の宇和島へ。そこで外科医をしていた父の愛弟子・二宮敬作のもとで医術修業に入ります。その二宮はイネに産科医になることを提案。男性医師の診察を嫌がり、命を落とす妊婦が多かった当時のこと。〝女の私が医者になれば、多くの母子の命が救えるはず〟――そう決意したイネは、岡山で開業していたシーボルトの門人・石井宗謙に19歳で弟子入りします。
イネより30歳も年上の宗謙は、彼女の天性の美貌に目を見張ります。やがて、悲劇が! 25歳のある晩、イネは宗謙に犯され、身ごもってしまうのです。過酷な運命に死をも考える日々…。それでも気丈に、自身の変化を冷静に観察しながら臨月を迎えます。そして、自力で女の子を出産。「この子はただただ私一人の子ども」とタダと名付けました。
乳飲み子を抱いて長崎に戻ったイネは、長崎で産科医をしながら、さらなる研鑽を積もうと、宇和島の二宮のもとで再び修業して開院。腕の良い女医者として評判となり、宇和島藩主に引き立てられたイネは、楠本という名字を賜ったのです。
時代は幕末の激動期でした。幕府が欧米各国と通商条約を結んだことで、シーボルトは放逐令(ほうちくれい)が解け、30年ぶりに再び来日。イネ母娘とシーボルトは感動の再会を果たします。父親の紹介で、イネはオランダ人医師からも産科医療法を学びます。
そして明治維新後、上京したイネは築地で開業。日本初の洋方女医として評価が高まり、福沢諭吉の推挙で明治天皇の侍女の出産に立ち会うという栄誉に輝いたのです。
男女差別の時代で混血児という逆境の中。数奇な運命に翻弄されながらも、強い意志で自らの人生を切り拓き、生涯を産科医療に捧げたイネが亡くなったのは77歳の時でした。
1827〜1903年。産科医。長崎でドイツ人医師シーボルトと遊女たきの間に生まれる。14歳で愛媛の宇和島に渡り、医学の修業に入る。19歳の時岡山で産科医の修業に。長崎や宇和島で産科の医療を行い、維新後は東京で開業。明治6年には宮内省御用掛となる。女性が正式に医師試験を受験できる1884年まで、イネは日本初の西洋医学を身に付けた女性産科医だった。