作家、僧侶
瀬戸内 寂聴
Setouchi Jakucho
出家遁世と放浪は、
いまや私のもっとも深い憧れとなって、
日夜、心をそそのかしてくる
1973(昭和48)年11月14日、奥州平泉の中尊寺で51歳の人気作家・瀬戸内晴美が出家し得度しました。突然の出来事であり、報道陣が押し寄せ大騒ぎに。法名は寂聴、剃髪もします。無数のシャッター音とフラッシュの中、本人は冷静で、「私の唯一の自慢だった黒髪の供養のためにも、もっともっと戦闘的に生き、自分でも許せる小説を書きつづけなければならない」と思いを新たにしたのです。
瀬戸内晴美(本名)は、大正11年に徳島市で神仏具の製造販売をする商家に次女として誕生。大勢の内弟子や奉公人がいる大世帯でした。四国という土地柄、物心つく頃から巡礼の鈴の音と御詠歌を耳にして育ち、般若心経もそらんじます。そんな晴美は病弱で友達もなく、文字を覚えると姉の本や家中の雑誌を読破。小学3年生で夢は「小説家」でした。
やがて、東京女子大学に進学します。その在学中に、北京在住の中国古代音楽史の研究者と見合いし結婚――「案外、飽き飽きしていた学生生活から脱出できる」。21歳で北京に渡り、間もなく長女を出産。その翌年に日本は敗戦を迎えます。
1947年、中国から親子3人で引き揚げたところへ、夫の元教え子で年下の文学青年が来訪。晴美を同人誌に誘います。青年への恋と文学への再燃が同時にもたらされました――「もう、それまでの結婚生活に耐えられない人間になっていった」
26歳の真冬、東京に幼い娘と夫を残し、コートも着ず身一つで晴美は出奔。友人に金を借り、着いた先は京都でした。しかし、恋は破局。父からの手紙「お前は人の道を外れ鬼になった。どうせなら大鬼になれ」を励みに、「これからはひたすら小説を書いていくしかない」と、娘を棄て大鬼になる覚悟をしたのです。
どん底生活の中、投稿した少女小説で原稿料がもらえるようになり、28歳で上京。子供向けの話を書きながら、純文学の同人誌にも参加。その中心的な作家・小田仁二郎と不倫の恋に落ちます。半同棲のある日、小田は晴美の才能を信じ、懸賞小説を書けと励まします。そうして締め切り目前、寝ずに書いた『女子大生・曲愛玲』が、新潮社同人雑誌賞を受賞。文壇デビューでした。
しかし、翌年に発表した『花芯』でエロ小説、子宮作家と袋叩きに。文芸誌から依頼は途絶え、新聞や雑誌の連載で食いつなぐ「こつこつした仕事が実った」のは、38歳の時。日本初の女性職業作家『田村俊子』の評伝で、第一回田村俊子賞を受賞したのです。40歳で『夏の終り』が第二回女流文学賞受賞――「作家としての自信を与えられ、ひた走りに走り、書きつづけた」
そして、創作活動に邁進する晴美の心にあったのは「出家遁世と放浪は、いまや私のもっとも深い憧れとなって、日夜、心をそそのかしてくる」という思いでした。それをついに51歳で実現したのです。出家の理由は様々でしたが、作家・井上光晴との不倫の渦中で「恋の重荷を下ろす時」とも書いています。
「五十年の垢と疲労のすべてが洗い流され、細胞がすべて瑞々しくよみがえり、精神的活力があふれるように思う」――出家後、寂聴は僧侶と作家として八面六臂の大活躍。
そして、「ペンを持ったまま伏して死にたい」という望みどおりに。連載を抱え99歳で往生したのでした。
1922~2021年。作家、僧侶。徳島県生まれ。少女小説でスタートし、34歳で文壇デビュー。1961年『田村俊子』で田村俊子賞、1963年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。1973年に得度、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴となる。『比叡』『かの子撩乱』『現代語訳 源氏物語』など著書多数。僧侶として法話が人気となり、悩める人を励まし、反戦、反原発運動にも邁進。井上荒野著『あちらにいる鬼』は、荒野の父・井上光晴と母、寂聴の関係を描いた小説。