女優・歌手
高峰 秀子
Hideko Takamine
私の歩んできた渡世の道は、もっと恥多く、
貧しく、そしてみじめだった
昭和4(1929)年、野村芳亭監督の映画『母』が封切られました。この涙の母子ものは大ヒットし、愛くるしい5歳の子役・高峰秀子も大人気となります。しかし、秀子にとって苦難の道の始まりでした――「私はただただ、石蹴りや、ままごとをして遊んでいたかった」
高峰秀子は大正13年に函館で誕生しました。本名は平山秀子で、祖父は函館で幅広く料亭や映画館を経営する土地の有力者。しかし、秀子が4歳の時に母親が結核で他界。そのため、駆け落ちして東京で暮らす父の妹・志げにもらわれました。
たまに現れる養父におんぶされ、秀子が松竹蒲田撮影所へ見物に行ったのは5歳の時。そこで行われていた子役オーディションに偶然参加して採用され、『母』に芸名・高峰秀子で出演したのです。秀子はたちまち松竹で引っ張りだこに。小学校に通うどころではありません。それでも台本が読めるようになり、抜群の記憶力で台本一冊を丸暗記します。
12歳の頃には、函館大火で全財産を失った平山一家が秀子を頼って上京。少女の肩に9人の生活がのしかかります――「私は金銭製造機」。
昭和12年に後の東宝に移籍。秀子が出した条件は女学校進学でした。人知れず強烈な「無学コンプレックス」を抱いていたのです。しかし、アイドル女優として多忙を極め1年で退学を余儀なくされます。「学校へゆかなくても人生の勉強は出来る」と秀子は涙を飲み込みました。
昭和15年、『小島の春』の試写会を観た秀子は、ハンセン病患者役の杉村春子に衝撃を受けます。「これほどの演技を売らなければ俳優ではない」――秀子が職業意識に目覚めた瞬間でした。また、声楽家にレッスンを受け歌にも真剣に挑みます。
しかし、華やかな活躍の裏では、養母との壮絶な確執がありました。見栄っ張りで精神不安定な志げは、秀子の稼いだお金を独り占めし、ことあるごとに娘をののしり続けます。
戦争を経て昭和25年、秀子はフリーの女優第一号として独立。翌年、日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』で主演。作品は、数々の賞を受賞します。しかし、過去の制作側による出演料の横領や養母との修羅場などで行き詰った秀子は、思い切ってパリへ逃避行。6か月間、
「自分の過去を捨てて」、独りで「普通の人間の生活を経験」しました。
帰国後、秀子は作品に恵まれ大きく羽ばたくことに。『二十四の瞳』『浮雲』『喜びも悲しみも幾年月』…、作品ごとにまったく違う役柄を見事に演じ、観客を魅了します。
やがて昭和30年3月、秀子は30歳で、1歳年下の助監督・松山善三と結婚します。莫大なギャラすべてを養母が浪費したため、その時の秀子の全財産はわずか6万円程。借金をしての披露宴はトップ女優にしては慎ましいものでした。でも、秀子は生まれて初めて幸せと安息を手に入れ、養母の束縛から逃れたのです。
「私の歩んできた渡世の道は、もっと恥多く、貧しく、そしてみじめだった」――自伝の最後にこう綴りました。それでも、多くの名監督や谷崎潤一郎、梅原龍三郎など文化人の薫陶を受けて、秀子は“「耳学問」こそ迅速なる栄養源であった”と、豊かな教養を身に着けました。そして、エッセイストとしても大活躍。苦難を糧として、秀子は自らの努力で幸せな人生を切り開いたのでした。
1924~2010年。女優、歌手、エッセイスト。北海道・函館生まれ。4歳で養母にもらわれ、5歳で子役デビュー。天才子役と謳われ、男の子役もこなした。愛称デコちゃんで親しまれる。『二十四の瞳』『浮雲』『放浪記』など日本映画黄金期の代表作に多数出演。1956年に映画監督となる松山善三と結婚。『わたしの渡世日記』『つづりかた巴里』など著書も多数。