実業家・随筆家
相馬 黒光
Kokkou Souma
世のため人のためにものを売って自他共に喜び合う。
昭和初期、まだ発展途上の地だった新宿で中村屋が大いに賑わっていました。お店には、パンから和菓子、ロシアチョコレート、月餅などが並び、喫茶室では純印度式カリー、ボルシチ、中華料理や肉まんなどが供され、ロシア風のルパシカを着たボーイも評判を呼んでいました。
コスモポリタンな雰囲気を醸し出して大人気の今に続く店の創始者は、相馬愛蔵・黒光夫妻。商品の多くは妻の創意工夫によるものでした。
黒光は本名を良と言い、1876(明治9)年、祖父が漢学者で元仙台藩士の星家に生まれました。維新後、家は没落。貧苦の中、良は教会の日曜学校に通い、西洋の息吹に触れます。常に目を輝かせ向学心旺盛な良は、教師から「アンビシャス・ガール」と呼ばれたのです。
やがて、横浜のフェリス女学校に学費免除で進学し、英語を学びます。そして、当時の文学少女の間で、芸術至上の校風で人気の明治女学校に転校。良はここで文学に傾倒し、文筆家を夢見ます――「実に豊潤な文芸の野に展けていました」
卒業後、東京専門学校(現・早稲田大学)を出た相馬愛蔵との結婚を勧められます。愛蔵は信州安曇野の出身で、禁酒運動や養蚕業に取り組んでいました。「私のあくがるるもの、求めてやまぬものは都会を離れた遠き田園の中にあるのではないか」――良は理想郷を夢見て21歳で安曇野に嫁ぎます。しかし、旧弊な田舎の生活に馴染めず病気がちに。
1901(明治34)年、夫婦は東京での新生活を決意。東京本郷のパン屋中村屋を買い取り、パン屋を始めます。この頃から、良は恩師がつけた「黒光」というペンネームを使うように。「あふれる才能の光を少し黒で隠しなさい」と忠告されたことが由来とされています。
士族出身ゆえに「いらっしゃいませ」も最初は言えなかった黒光ですが、持ち前の頑張りで日本初のクリームパンを発明するなどしてお店を繁盛させます。そして、1909年には現在の新宿へ移転。「世のため人のためにものを売って自他共に喜び合う」という理念で、従業員を厚遇し、商品開発に心を配ります。
そして、愛蔵と同郷の彫刻家荻原碌山や高村光太郎、洋画家中村彝などの若き芸術家達が中村屋の居間に集うようになり、「中村屋サロン」と呼ばれたのです。黒光は貧しい彼らに支援を惜しみませんでした。
その親身さに、碌山が年上で人妻の黒光に思慕を寄せるように…。しかし、その碌山が急逝。アトリエには、もがきながら高みを見上げる裸婦像が遺されていました。黒光はひと目で、「これは私自身だ」と悟り号泣します。この「女」という作品は近代彫刻の名作となりました。
その後も、ロシアの盲目の詩人エロシェンコを保護し、国際手配のインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを匿います――「みすみす殺そうとして待ち構えている者の手に引き渡すのは何という恥ずかしいことか」。黒光は、彼らからボルシチやカリーを学びます。中国旅行では、月餅や肉まんを商品に思いつきます。「私の人生行路は、山あり、谷あり、急坂あり、泥沼あり、ある時は怒涛狂瀾」――自身の病気や9人の子のうち6人が早世する苦労もあった黒光ですが、夫の理解の元、いち早く世界に目を見開き、アンビシャス・ガールの生き方を貫いたのでした。
1876〜1955年。実業家・随筆家。仙台市生まれ。横浜のフェリス女学校、明治女学校に学び、相馬愛蔵と結婚。1901年に愛蔵と共にパン屋の中村屋を本郷で創業。1909年に現在の新宿に店を移す。夫妻は若き芸術家達に交流の場を開放し、「中村屋サロン」と呼ばれる。インド独立運動家ラス・ビハリ・ボースを匿まったことでも知られる。『黙移』などの随筆も著した。