彫刻家
カミーユ・クローデル
Camille Claudel
人生で価値があるのは、芸術と詩だけ
1980年代、パリや日本で、女流彫刻家の先駆者であるカミーユ・クローデルの展覧会が次々に開催されました。彼女に関する著書も多数出版され、1988年にはフランス映画『カミーユ・クローデル』が公開。世界的なヒットとなります。それまで忘れられていたカミーユにようやく光が当たったのです。
カミーユは、1864年にフランス北部で官吏の父親のもとに生まれました。待望の長男を生後すぐに亡くした母親は、次に生まれたカミーユが女児だったために深く失望。妹ルイーズを偏愛するようになります。その下に弟ポールも誕生します。
母の愛を得られないカミーユは、鬱屈した思いをぶつけるように、粘土で像を作ることに夢中になります。古典文学にも傾倒し、神話の世界や家族をモデルに作品を作り続けます。それらを見た彫刻家アルフレッド・ブーシェは、カミーユの才能に驚嘆。
「(姉は)自分が偉大な芸術家になるべき天命を与えられていると自覚したのだった」――後に詩人で外交官となった弟ポールはこう回想。〝パリに出て、もっと本格的に彫刻の勉強がしたい〟という思いを募らせたカミーユは、家族を説得してパリ移住を決意します。女性が芸術家になるなど奇想天外だった時代です。
17歳でパリに出たカミーユは、果敢にも男ばかりの彫刻界に足を踏み入れました。そして、カミーユを指導していたブーシェがイタリアに留学することになり、指導を託したのが、新進気鋭の彫刻家オーギュスト・ロダンでした。
19歳のカミーユ、43歳のロダンはこうして出会います。類まれな美貌と才能、深い教養を持つ若いカミーユに、ロダンはたちまち魅せられます。彼女をモデルにして作品を創るロダン。やがて二人は狂おしいまでに愛し合うようになるのです。
そうしてカミーユは、ロダンの弟子、愛人、共同制作者となりました。カミーユがアイデアを出し、二人は多くの傑作を世に送り出します。しかし、その関係を知った家族は激怒。
「人生で価値があるのは芸術と詩だけ(中略)、家庭や社会や宗教などのあらゆる慣習は欺瞞にすぎない」――カミーユは力強く言い放ちます。
やがて、名声が高まったロダンは多忙になり、遠く離れることも度々。
「あなたが隣にいると思い込ませるために、私は裸で寝ています。でも、目が覚めるとやっぱりただの夢。もう私を裏切らないでください」――切ない手紙を書くカミーユ。しかしロダンは、売れない頃から連れ添った内縁の妻ローズのもとに帰ったのです。なんという男の身勝手さ。
「いつも何か欠けているものがあり、それが私を苦しめるのです」――愛を失った喪失感を埋めるように、カミーユは彫刻家としての成功を目指します。しかし、自尊心の高い彼女を苦しめたのは、どこまでもついて回るロダンの名前。〝ロダンの弟子〟〝ロダンの物真似〟…。
ついには「ロダンがアイデアを盗みにくる」という強迫観念を抱き、次第にカミーユを狂気がからめ取っていきます。そして1913年49歳の時、亡くなるまで30年間、家族によって精神病院へ幽閉されたのです。
それから時を経て、カミーユの再評価が起こりました。決してロダンの真似ではない独創的な作品の数々は、永遠の輝きを得たのです。
1864~1943年。彫刻家。フランスの地方生まれ。17歳で彫刻の勉強のためにパリに出る。19歳で彫刻家ロダンの弟子に。愛の陶酔を表現した『シャクンタラー』『ワルツ』、男女3人の愛の破綻を表した『分別盛り』、ジャポニズムの影響を受けた『波』など、独創的な作品を残す。ロダンの遺言により、カミーユの作品はパリのロダン美術館に展示されている。大正時代、弟のポール・クローデルは駐日大使として日本に滞在している。