女帝
エカテリーナ2世
Catherine Ⅱ,Empress of Russia
ここで誰からも愛されるために、私はロシア人になりきる!
1762年6月28日(現在の暦で7月9日)、ロシアでクーデターが勃発します。皇帝ピョートル3世を追い落とし、その妃であった33歳のエカテリーナ2世が女帝の座に就いたのです――「私は民衆の合意のもとに政権の座にのぼった」。
エカテリーナは、1729年に北ドイツの小領主の娘ゾフィーとして誕生。フランス人の家庭教師に学び、フランス語に堪能な才気煥発な少女に育ちます。その頃、ロシアを支配していたエリザヴェータ女帝は、未婚で跡継ぎがいませんでした。そのためドイツから甥のピョートルを呼び寄せて皇太子とし、その妃候補としてゾフィーを選んだのです。
そうしてゾフィーは、14歳でロシアに旅立ちます。でも、辿り着いた宮廷では、よそ者…。「ここで誰からも愛されるために、私はロシア人になりきる!」
――異国でたった独り生き抜くための覚悟を決めたゾフィーは、ロシアの言語や歴史、慣習などを猛勉強。さらにロシア正教に改宗し、エカテリーナ・アレクセーエヴナの名が授けられました。そんな彼女に民衆の人気も高まります。
1745年8月、16歳のエカテリーナと17歳のピョートルの結婚式がサンクトペテルブルクで盛大に執り行われました。しかし、ピョートルは、おもちゃの兵隊で遊ぶのが大好きという心身ともに未熟な男の子。孤独なエカテリーナを慰めたのは学問でした。特にフランスの啓蒙思想に傾倒し、フランスの学者と書簡を交わすまでになります。結婚9年目に皇太子パーヴェルが生まれますが、結婚生活はもはや破綻状態でした。
ピョートルは酒と愛人に溺れ、ロシア嫌いを公言し、話すのはドイツ語のみ。この有り様に、エリザヴェータ女帝が「少なくとも嫁のほうが利口だ」ともらすまでに…。その女帝が1761年12月に亡くなると、ピョートルが皇帝に即位します。
すぐさまピョートルは、妻に公然と「バカ! お前を放り出すぞ」と言い放ち、愛人を皇后の座に据えます。黙って屈辱に耐えたエカテリーナ…。実は寵臣の子を身ごもっていたのです。しかし、皇帝のあまりの無能ぶりにエカテリーナ待望論が高まり、廷臣や軍隊の間で着々とクーデターの準備が進められました。
やがて、エカテリーナの出産を待って無血クーデターが決行されたのです。さっそくエカテリーナは政治手腕を発揮。「人道主義的な統治」という理念のもと、政治改革に取り組みます。国民の衛生改善から、ロシア始まって以来の女性教育を実施。飢饉対策でじゃが芋を広めたのです。
こうして、不屈の魂で広大なロシアを近代国家に押し上げたエカテリーナが心の安らぎを求めたのは、美と恋でした。ヨーロッパ中から優れた美術品を収集し、エルミタージュ(隠れ家の意味)と名付けた画廊に収めます――「これに見惚れているのは私とネズミだけ」
そして、幾たびの恋を経た後に、最愛不可欠のパートナーとなったのが軍人ポチョムキンでした――「私の心は一刻も愛なしにはいられない」。彼が亡くなった時、卒倒してしまったエカテリーナも、その5年後、67歳で波乱の生涯を閉じます。彼女の訃報に、旧知のフランス貴族が叫びました――「北半球のもっとも美しく、輝かしい星が消えたのだ」
1729~1796年。北ドイツの小領主の娘として誕生。14歳でロシア皇太子ピョートルのお妃候補としてロシアへ。16歳で皇太子妃となる。1761年に夫がピョートル3世となるが、統治能力に欠け、翌年のクーデターにより、エカテリーナ2世の誕生となる。ロシアの政治改革、文化、教育の振興、疾病対策などに力を尽くす。現在、世界屈指の規模を誇るエルミタージュ美術館のいしずえも創った