画家
いわさき ちひろ
Chihiro Iwasaki
何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う
淡い色彩に独特のタッチで描かれた愛らしい子どもの絵――いわさきちひろという名前は知らなくても、彼女の絵は一度は目にしたことがあるはず。人々を魅了するその甘く繊細な絵の陰には、ある悲しみと苦悩が秘められていたのです。
いわさきちひろは、1918(大正7)年に生まれました。陸軍建築技師の父と、女学校教師の母のもと、東京のモダンで恵まれた家庭に育ちます。幼い頃から絵が並はずれて上手だったちひろの夢は、画家になること。しかし、両親の猛反対で進学は阻まれてしまいます。
20歳の時、両親が薦めた相手と結婚します。気の乗らない結婚に最初から最後まで相手と心を通わすことができなかったちひろ。夫の自殺という悲劇的な結末を迎えることになります。自分の頑さが相手を追いつめ、死に向かわせたという事実に、ちひろが受けた精神的な衝撃は、計り知れません。
実家に戻ったちひろは、書や油絵を学ぶなどして自立の道を探します。母は、その頃満州開拓団に花嫁を送り込む任務に就いていました。1944年、ちひろは女子義勇隊とともに満州へ渡ります。戦況が悪化するなか、体調を崩したちひろは、上層部の計らいで帰国しますが、そのときに見た開拓国の人々の想像を絶する生活は、後に重い罪の意識となって残っていくのです。
1945年5月、東京・中野にあったちひろの家は空襲で焼失、疎開先の信州で終戦を迎えます。そこで、それまで日本で弾圧されていた思想と出会い、戦争の実態を知るのです。両親の庇護のもと恵まれた生活を送っていた自分の無知さも…。「戦争が終わって初めて、なぜ戦争が起きるのかということが学べました」
終戦の翌年、27歳で家出同然で上京。新聞やポスターの挿し絵画家として自立の道を踏み出します。
そして30歳の時、ちひろは7歳半年下の青年松本善明と恋に落ち、翌年結婚。一人息子の猛が誕生します。温もりやたしかな重さを感じられるわが子というモデルを得て、ちひろの描く子どもは格段に進歩していきました。
「私はごく自然に〝童画家〟になったのです。子どもの世界が好きなので、子どものことばかり描いていたんですね」
――人気を集めるようになったちひろは、絵で展開する絵本を制作し、新境地を切り開いていきます。国際的な賞を受賞し名声も得ます。
「平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」
――絵本画家としての地位を築いたちひろの心にいつもあったのは、戦争への怒りと平和を希求する思いでした。晩年には、戦争で犠牲になった子どもたちを描いた絵本『わたしがちいさかったときに』や、『戦火のなかの子どもたち』なども手がけています。
「何年も読みつづけられる絵本を、せつにかきたいと思う」
――最期まで絵筆を取っていたちひろが、がんで亡くなったのは55歳の時。「もっと描きたい」という言葉を遺して…。
1918~1974年。画家。福井県武生で生まれ東京で育つ。1946年、疎開先の長野県から上京。挿し絵画家から出発し絵本画家となる。1950年に松本善明(後に弁護士、衆議院議員)と結婚。代表作『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』『戦争のなかの子どもたち』など。挿し絵画家の著作権擁護にも力を尽くした。55歳でがんのために死去。未完の遺作は『赤い蝋燭と人魚』。