作家
吉野 せい
Elizabeth Blackwell
何もかもかなぐり捨てて、その山の畑に立とうと決心した
1975(昭和50)年、吉野せいが著した『洟をたらした神』が第6回大宅壮一ノンフィクション賞と、第15回田村俊子賞を受賞しました。せいは76歳の農業に携わる女性で、そのデビュー作とあって、世間は驚きました。「思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみ」を書いたという作品は、選考委員から「芥川賞がふさわしい」「恐るべき老女の出現である」と絶賛されたのです。
1899(明治32)年に、せいは福島県の海辺の町・小名浜で若松せいとして誕生しました。家は裕福な網元でしたが、徐々に没落。高等小学校(現在の中学校)を卒業後、独学で、難関の小学校准教員試験に17歳で合格します。そして、文学少女だったせいは、教師をしながら短歌や短編の投稿を始めます。
「空と海青ひとすぢのはてしより湧き来たるかも瞼毛をぬらす」
「みをつくしあらはに見えつかもめ鳥一羽二羽三羽五羽二十羽」
幾つかの短歌が詩人の山村暮鳥らが創刊した雑誌『プリズム』に掲載。短編も別の雑誌に掲載されました。
早熟な才能を認められたせいは、「魂の打ちこめないこの仕事で飯をくうことの空しさを感じた」と、学校を退職。文学書を耽読する日々、詩人の三野混沌(本名・吉野義也)を紹介されます。混沌は、いわき市にある菊竹山で梨畑の開墾をしながら詩作にふける文学青年でした。
心を通わせ合った2人は、せいが22歳、混沌27歳で結婚。「何もかもかなぐり捨てて、その山の畑に立とうと決心した」――せいはそれまで書いた作品や日記すべてを焼き捨てて、粗末な小屋で混沌との新生活に踏み切りました。
けれども、開墾生活は過酷でした。片時も創作手帳を離さず、わずかな収入を謄写版や本に使う混沌。そんな夫を横目に、せいは7人の子を産み、身を粉にして荒地を耕します。しかし昭和5年、4番目の女の子梨花が、1歳の誕生日を迎えることなく肺炎で息を引き取ります。医者に診せる金などありませんでした。
生活のために筆を折ったせいでしたが、この胸が張り裂けるような悲しみだけは克明に綴りました――「梨花を思ふとき創作を思ふ。……創作は梨花だ。書くことが即ち梨花を抱いていることだ」
貧苦の中、混沌は戦中戦後にかけて組合運動や農地解放運動に奔走。農作業から離れていきます。次第にせいは、夫を蔑むようになるのです――「家族のためには役立たぬ彼」。そして混沌は、畑のはずれのわら葺小屋で寝泊まりするように。
その混沌が昭和45年に死去。2年後、友人で詩人の草野心平らが混沌を偲んで詩碑を建立します。除幕式で、心平はせいに、「今こそ書くべき時だ、生きているうちに」と諭します。せいは戸惑いながらも“老いかれた身内に熱いものが流れる”ような感情がこみ上げてきます。
そうして、半世紀を経て再びせいは、短編を書き始めます。「海の娘」が「百姓女」となったこと、厳しい暮らし、自然の美しさ、夫との葛藤…。せいは書くことで、夫の足跡は「谷間のくぼみに溢れる清冽な清水のようなものではなかったか」と、憎しみを乗り越えていきます。
「自分たちの生きる場所はここより外にない」――家族のために、亡き子のために、力強く生きたせいが生涯を終えたのは78歳の時でした。
1899~1977年。作家。福島県小名浜生まれ。17歳で検定で教員資格を取り小学校教員となる。小説家を目指していたが、詩人の三野混沌(吉野義也)と結婚。開墾生活に入る。夫の死後、70歳を過ぎて草野心平の勧めで執筆活動を再開。『洟をたらした神』で大宅壮一ノンフィクション賞、田村俊子賞を受賞。副賞でヨーロッパを旅行する。1977年、78歳で死去。