陸上選手・新聞記者
人見 絹枝
Kinue Hitomi
私は日本を代表したのではないのだ。
人見個人としてプラハに行ったのだ
女子の陸上競技が近代オリンピックで認められていなかった1926(大正15)年8月。スウェーデンで女性だけの陸上競技大会、第2回万国女子オリンピックが開催されました。そこにアジアからたった独り、19歳の人見絹枝が出場しました。5種目に出場した結果、走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝。そして、個人総合最多得点で名誉賞に輝きました。
人見絹枝は、1907(明治40)年、現在の岡山県岡山市で農家の次女として誕生。バッサイ(方言でお転婆)と呼ばれる元気な女の子でした。やがて、難関の岡山高等女学校に進学。往復12㎞を歩いて通います。
女学校で、文才があり将来は作家と太鼓判を押された絹枝は、当時流行のテニスに夢中になります。そして、身長170㎝近くあり高い身体能力を持つ絹枝は、見込まれて県の陸上競技大会に出場。走り幅跳びでいきなり日本新記録を出したのです。
卒業後は、校長の勧めで東京の二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に進学。「女が太ももを出して走るなんて」と罵られた時代、絹枝も家族も周囲から変人扱いでした。
やがて、18歳で体育教師に。「青空の中を太陽の光にキラキラと光って飛ぶやりの姿を眺めるときの気持ちで、毎日を送っていきたい」――絹枝は理想に燃えます。
そんな絹枝を大阪毎日新聞が記者としてスカウトしたのです。こうして絹枝は新聞記者とアスリートの二足の草鞋を履くことに。そして、派遣されたのが冒頭のスウェーデン大会です。帰国後、大歓迎を受けた絹枝はますます多忙に。それでも、「努める者は何時か恵まれる」を胸に、わずかな時間も練習に励みます。
1928(昭和3)年8月、女子の陸上競技が試験的に認められた第9回アムステルダム・オリンピック。出場した絹枝は、期待の100mでまさかの準決勝敗退。「このままでは日本に帰れない」――眠れぬ夜を明かした絹枝は、未経験の800m出場を決めたのです。
周囲の猛反対をよそに、死に物狂いで走る絹枝。疲労で目が見えなくなりゴールに倒れこみます。絹枝が意識を取り戻した時、スタンドに日の丸が! 僅差の銀メダルでした。日本女性初のメダリスト誕生です。「四季の中、私は何を楽しみ、何を忌むということは、年中ありませんでした」――人並みの青春を望む絹枝…。でも、100mで勝てなかった悔しさが甦ります。そして、次は独りではなく団体での参加を決断――「私が引退しても、他の選手たちが立派にやっていけるだけの展開が見えたら、この道を後輩に譲ろう」
昭和5年、チェコのプラハでの第3回万国女子オリンピックに、絹枝は5人の選手を率いて参加。しかし、風雨と寒さに見舞われます。絹枝は風邪で体調を崩しますが、死力を尽くし個人総合2位に輝いたのです。
さらに、欧州転戦を重ねる絹枝を欧米の新聞がワンダフル・ヒトミと称える一方、日本からは1位ではないと不満の声が。「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ」――競技は自分のためと言い聞かせます。
帰国後、疲労困憊のまま講演を続けた絹枝は、ついに大量喀血しそのまま入院。昭和6年8月2日、わずか24歳で旅立ちました。日本女性初のスポーツ記者とオリンピックメダリストとして多くの人に感動を与え、足早に青春を駆け抜けたのでした。
1907~1931年。陸上選手・新聞記者。岡山県生まれ。岡山高等女学校卒業後、二階堂体操塾入学。京都と台湾での体育指導を経て、大阪毎日新聞社に入社。1926年、第2回万国女子オリンピックで個人総合優勝。1928年、第9回アムステルダム・オリンピックで銀メダル獲得。日本女性初のメダリストとなる。スポーツ記事や実技本の執筆、講演で女子体育の普及に努めたが、24歳で病死。没後、プラハに絹枝の顕彰碑が建った。