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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

女優・大統領夫人

エバ・ペロン

Eva Peron

私は大統領夫人でいるよりも、
ただのエビータでありたい

 1952年7月26日、アルゼンチン大統領夫人エバ・ペロン、愛称エビータが33歳の若さで亡くなりました。たちまち国中が悲しみに包まれ、その日のうちに首都ブエノスアイレスには70万人もの人々が押し寄せました。その追悼の人の波は何日間も絶えることはありませんでした。

 エバは1919年にパンパス(大平原)の辺境の村で誕生。料理人の母親が牧場主との間に産んだ5人の子どもの末っ子でした。生活は貧しく、私生児として蔑まれて育ったエバは、特権階級への憎悪をたぎらせていきます――「この世には貧しい人と金持ちがいることに気づいた時。私には金持ちの存在がショックでどうにも我慢がなりませんでした」

 そして、15歳でスターを夢見て家出――「ブエノスアイレスを手に入れる!」。当時、ブエノスアイレスは戦禍が続くヨーロッパへの穀物と牛肉の輸出で繁栄を極めていました。その華やかな大都会の片隅で、モデル、ラジオ劇や舞台の端役などの仕事に少しずつありついていきます。

 上京して4年、ようやくエバはラジオドラマの主役を射止めます。野暮ったい田舎娘も美貌に磨きがかかります――「誰もが私に言い寄ってきた」。やがて、1944年1月に地方で起きた大地震の救済で、率先してチャリティーショーを開催。そこで労働省大臣のフワン・ドミンゴ・ペロンと出会ったのです。エバ24歳、ペロン48歳でした――「私の人生がペロンの人生と一致した日であった」。ペロンもまた田舎から上京して、大統領を目指していた人物。強烈な野心を持つ似た者同士の2人はたちまち愛し合うようになります。

 1945年10月12日、クーデターが勃発し、ペロンは投獄。エバは素早くペロンの支持層である労働者たちに応援を呼びかけます。その結果、10月17日、何万人もの労働者が蜂起したのです。上流社会の人々は驚愕し、「動物の氾濫」「デスカミサドス(シャツ無し人種)」と蔑みます。

 その蔑称を誇りある名称に変えたのはエバでした。「デスカミサドスは、苦難、正義、真実を意味する言葉なのです!」――エバの絶叫に群衆は歓喜。ペロンは釈放され、すぐに2人は結婚。翌年にペロンは選挙で圧勝し、大統領となりました。

 念願のファーストレディとなったエバは、“エビータ”と呼ばれるようになります――「もしこのエビータが、皆さんの苦しみを少しでも和らげ、涙をぬぐってあげられるとしたら、私は大統領夫人でいるよりも、ただのエビータでありたい」

 エビータが抱き続けた不公平さへの恨みが貧困層救済に駆り立てます。労働者用の住宅、学校、病院、孤児院、養老院などの建設や生活物資の配給に奔走――「私は、彼らが貧しい人たちに強いた苦しみのすべてに対する償いをさせるでしょう」

 さらに、女性の地位が低い南米で女性の参政権を獲得しました。「私の時間がどんどんなくなっていく」――ついには子宮がんでたおれるまでエビータは日夜働き続けます。

 富裕層はエビータをその経歴から、「淫売」「成り上がり」と軽蔑し、「ばらまき政策」と非難しました。しかし、豪華な宝石をまとったエビータの姿は、民衆にとっては立身出世も夢ではないという希望の女神に映りました。エビータの死後、その存在は神話となりアルゼンチンの人々の心に生き続けたのでした。

Profile

1919~1952年。女優・大統領夫人。アルゼンチンの地方で私生児として誕生。15歳でブエノスアイレスに出て、女優・声優となる。1945年フワン・ペロン大佐と結婚し、翌年ペロンが大統領に就任。ファーストレディとなり、エビータの愛称で絶大な人気を得る。女性参政権の獲得や貧困層救済に奔走。33歳で子宮がんで死去。ペロン失脚後、軍事独裁政権が続き、エビータの存在は長く封印された。