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時を創った美しきヒロイン

下着デザイナー、エッセイスト

鴨居羊子

Yoko Kamoi

おそらくこの新しい下着の経験に、
肌は喜びの声をあげるに違いありません

  1955(昭和30)年12月9日、大阪そごう百貨店のギャラリーで下着デザイナー鴨居羊子の個展が開かれました。通路用の小さなスペースでしたが、羊子は「ここが日本の女性の下着生活を革命する記念すべき場所となるのだ」と意気込みます。白のメリヤス製下着が一般的だった当時、カラフルな化学繊維の下着の数々が世間に衝撃を与えたのです。

 鴨居羊子は、大正14年に大阪の豊中市で生まれました。父親は新聞記者で兄と弟の3人兄弟でした。やがて、金沢で終戦を迎えますが、大好きな兄は戦死し、戦後に父親が脳溢血で死去。画家か彫刻家への道もかなわず悶々としていた24歳の羊子が母と弟を養うこととなるのです。

 昭和24年、大阪に出た羊子は伝手を頼り小さな夕刊紙の職を得ます。2年後には大阪読売新聞社に移り文芸部記者として活躍。そんなある日、小さな舶来雑貨の店でピンクのガーターベルトに魅せられ、給料をはたいて衝動買いをしてしまいます。

明治生まれの旧弊な母親に見せると、「まあ、お嫁にゆくまでしまっておくんですよ。それがたしなみです」と小言が止まりません。でも、羊子は「青春をタンスにしまえない」と翌日から着用。「私の中身はピンク色に輝き、トイレでスカートをめくるとピンクの世界が開ける」

 昭和29年、羊子は「ものをつくる方になりたい」と、29歳で新聞社を退社。翌日から、出勤する振りをして、友達のアパートに通います。

 母親から何かにつけて「はしたない」とたしなめられる度、「自由に生きる、経済的に自立する、たくさん恋人をもつ自由な生活の方へ私はどんどん触覚をのばしはじめた」羊子が選んだのは下着作りでした。ピンクのガーターベルトを身に着けた時の喜びが原点ともなりました。

 軽やかでカラフルなナイロン地を仕入れ、ミシンを踏みます。目指したのは、着心地が楽で楽しい気分になれる下着。自ら刺繍も施します――「暗い古い部屋から明るい新しい下着が次々と誕生していった」

 その部屋に突然、母親がどっさりお弁当を抱えて訪ねてきます。新聞社を辞めたことがばれたのです。母親は友人に頭を下げ、材料費の足しにとお金を置いて帰ります。厳しい母の親心に羊子は涙ぐむのでした。

 そして翌年、初の個展を開催したのでした――「肌は、合理性とか情緒性に対してはたいへん正直です。……おそらくこの新しい下着の経験に、肌は喜びの声をあげるに違いありません……第二の皮膚の誕生です」

 下着は実用品であるはずが、突然甘い夢のような美しさで出現したことで、一部からスキャンダル扱いに。しかし女性達は、下着は誰に見せるのでもなく自分自身の愉しみであることに目覚めたのです。そして、この羊子の挑戦が下着ブームを巻き起こしました――「世の中は回り出していた。何処へ? 私の予期した方向へ。しかも確実に。華々しく」

 多くの難局を乗り越えながら、経営者、下着デザイナーとして名を成し、さらに、画家、人形作家、エッセイストもこなし、趣味でフラメンコを踊り、病気で倒れた母の介護もします。全力で人生を楽しんだ羊子が亡くなったのは66歳の時でした――「人生はアイスクリームのごとしだ。やがて時間と日向の太陽に溶けてなくなってしまうが、決して全部が消えてしまうわけではない」

Profile

1925~1991年。下着デザイナー、エッセイスト。大阪府豊中市生まれ。新聞記者を経て下着デザイナーに転身。1955年に日本初のカラー下着を発表。下着ショーを各地で開催し下着革命を巻き起こす。会社経営の傍ら、「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」など多くの著書を執筆。画家、人形作家でも活躍。画家の故・鴨居玲は弟。