作家・きものデザイナー
宇野 千代
Chiyo Uno
幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ。
昭和57年、84歳の作家宇野千代の自伝的小説『生きて行く私』が毎日新聞に連載されました。数々の修羅場も楽天的に切り抜けるその姿は反響を呼び、翌年に単行本化されると、100万部を超える大ベストセラーとなったのです。さらに、ポジティブな生き方を唱えるエッセイを次々に発表。〝幸福教教祖〟とまで呼ばれるようになりました。
宇野千代は明治30年、山口県の岩国で生まれました。母はすぐに亡くなり、父は20歳年下の女性と再婚。義母は5人の弟と妹を生みますが、誰よりも千代を大事に育てます。千代はのびのびと育ち、同人雑誌を作る文学少女へと育ちます。
千代が16歳の時に父が病没。代用教員として働き始めた千代は、同僚教師と「熱病のような恋」に落ちたのです。すぐに免職処分となり、彼とも破局。韓国へ渡ったものの恋を諦めきれずに帰国。彼を訪ねますが、罵倒され雨戸まで閉められて…。
「私と別れを望むなら、どうしてそれに従わぬと言うことがあるものか」
――生涯、幾度もの失恋を経験する千代は、相手の心変わりに抗わないことが最良だと悟るのです。
次に好きになった従兄の藤村忠とは、彼の大学卒業後に結婚。北海道の銀行に就職した忠と、札幌で新婚生活を送る中、千代は時事新報の懸賞小説に『脂粉の顔』を応募します。その処女作が一等賞となり、賞金200円を手にしたのです。24歳の時でした。「自分にものを書く力がある、と思い込んだ」――次回作を中央公論社に送りますが、なしのつぶて…。矢も盾もたまらず上京した千代は、その作品がすでに掲載されていることを知ります。そして、同じ懸賞小説で2位だった尾崎士郎と電撃的な恋に落ちました。千代は忠と離婚し、尾崎と再婚。『或る女の生活』などで作家の道を歩み始めます。
けれども尾崎が、いつしか若い女性と一緒になっていたのです。千代は潔く身を引き、執筆に没頭。そして、情死の描写で悩んだ千代は、心中未遂事件で騒がれていたフランス帰りの画家東郷青児に話を聞きに行き、その日のうちに同棲を始めます。やがて、東郷が心中相手とよりを戻したことで、2人の関係は破綻。しかし、この体験が後に「私の全著作の中で一番面白い」という『色ざんげ』に結実していきます。
東郷とのモダンな生活から、洋装に目覚めた千代は、昭和11年に、日本初のファッション誌「スタイル」と、さらに文芸誌「文体」を創刊。編集に加わったのが10歳年下の恋人で作家の北原武夫でした。2人は千代が42歳の時に正式に結婚します。
戦後、二つの雑誌を復刊。「文体」には、後に代表作となる『おはん』を連載します。しかし、会社は多額の負債を抱えて倒産。北原は書きに書き、千代はきものデザイナーとして働き、2人で借金を完済した昭和39年。すでに愛人がいた北原が差し出したのは離婚届け。千代は黙って署名して、「声を立てずに泣いた。」
「幸福のかけらは、幾つでもある。」「幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ」「相手をうっとうしく思わせないのが、恋愛の武士道である」「何だか、私、死なないような気がするんですよ」――数々の名言を残し、千代が天寿を全うしたのは98歳の時。執筆に、恋に、お洒落から料理まで手を抜くことなく、全力で生きた見事な人生でした。
1897〜1996年。作家・きものデザイナー。山口県生まれ。大正10年『脂粉の顔』で懸賞小説1等入選となり作家デビュー。日本初のファッション誌「スタイル」の創刊や、きものデザイナーなどでも多才に活躍。桜好きが高じて、岐阜県根尾谷の淡墨桜の保護にも尽力した。代表作に『色ざんげ』『おはん』『人形師天狗屋久吉』など。生家は一般公開されている。