女優
岡田 茉莉子
Okada Mariko
父の姿をこの眼で確かめることができただけで、
私は幸せだった
2023年7月から8月にかけて、大阪で「生誕90年記念 映画女優・岡田茉莉子」と銘打った映画祭が開催されました。戦後の大女優岡田茉莉子の多彩な作品は今でも色褪せない輝きを放って観客を魅了しました。
岡田茉莉子は、1933(昭和8)年1月に田中鞠子として東京で誕生。父を知らず、病弱で人見知りが激しく、いじめにあいます。国内外を転々として育ち、終戦を迎えた新潟市でそのまま女学校に通います。
戦中、戦後の過酷な体験をしたことで鞠子は「いつしかたくましくなり、独立心の強い娘に変わっていった」。高校では演劇部に入り、ある日、演劇部の友人と「無声映画」と描かれたポスターに物珍しさを覚え、『瀧の白糸』という映画を観ます。
帰宅後、その話をした途端、母は無言に。しばらくして、母は絞り出すように「スクリーンに、映っていたのは、あなたのお父さん。岡田時彦という映画俳優」と明かします。翌日、鞠子は独りで再び映画館へ――「父の姿をこの眼で確かめることができただけで、私は幸せだった」
その後、母は宝塚歌劇団で田鶴園子という男役スターで、大人気二枚目スター岡田時彦と恋に落ち、鞠子を産んだこと。父は鞠子誕生の1年と5日後に、肺結核で30歳の若さで亡くなったことを知るのでした。
高校卒業後、東京へ戻った鞠子は家計のために就職することを考えていたところ、叔父から、東宝の演技研究所を薦められます。鞠子は思わず「そんな仕事、向いていない」と声を荒げます。でも、母はこう語り掛けます。「あなたはお父さんの映画を、偶然見てしまった。お父さんが呼び寄せたのよ。映画女優になるのは宿命かもしれない」
1951年18歳で、東宝演技研究所の聴講生となった鞠子は、20日後に川端康成原作『舞姫』の準主役に抜擢。芸名は、岡田時彦の名付け親である文豪・谷崎潤一郎によって「岡田茉莉子」と命名されます。
しかし、芸者、水商売、不良少女の役ばかりが続き「まだ若かった私は、勝手に貼られたレッテルに抵抗しないわけにはゆかなかった」。珍しくホームドラマが決まりそうになっても、芸者役の彼女には不向きと反対され、茉莉子は撮影所長に直談判。自分で普通の役を勝ち取りました。
常について回る父の名に重圧を感じながらも、「女優としての私自身を生かす道を探し求めて歩む」と茉莉子は24歳でフリーに。間もなく松竹と契約し、様々な役柄で活躍。喜劇にも才能を発揮し、女優として大きく飛躍したのです。さらに、自らの主演作をプロデュースするように。
28歳では自身の百本記念映画『秋津温泉』を企画・製作し、監督を新進気鋭の吉田喜重に依頼。映画は数々の賞に輝きました。もう悔いはないと、祝賀会で引退宣言をするつもりが、吉田が「あなた自身の青春をすべて映画に捧げたことを惜しいと思いませんか」と説得。茉莉子は席上で宣言しました――「今後、命のあるかぎり女優を続けます」
そして、お互いの才能に惚れた茉莉子と吉田は結婚。2人で数々の名作を創り出していきます。
「父と母によって運命づけられた映画女優の道を、私自身がつくりだす岡田茉莉子という私を、一生費やして探し求めつづけてきた」――76歳で上梓した自伝に綴られた、女優としての歩みへの真摯な思いです。
1933年~。女優。東京都生まれ。父は戦前のスター俳優岡田時彦、母は元宝塚スター田鶴園子。高校卒業後、東宝演技研究所に入所。20日後に成瀬巳喜男監督の『舞姫』で銀幕デビュー。31歳で吉田喜重監督と結婚。2人で現代映画社を立ち上げ、数々の作品を製作し出演。『秋津温泉』『浮雲』『流れる』『エロス+虐殺』『人間の証明』など180本以上の映画に出演。テレビや舞台でも活躍している。