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時を創った美しきヒロイン

三代将軍家光の乳母

春日局

Kasuganotsubone

弟が跡継ぎになれば、家督争いのもと。
これではまた戦国時代に逆戻りしかねない

 大奥、それは愛と嫉妬の渦巻く女の園として、数々のドラマとなっています。この大奥の礎を築いたのは、徳川幕府三代将軍家光の乳母である春日局。乳母でありながら幕府をも動かす権力の持ち主でした。

 春日局は、天正7(1579)年に明智光秀の重臣斎藤利三の娘、福として現在の兵庫県丹波市の黒井城で誕生しました。しかし福が4歳の時、明智光秀が主君織田信長を襲った「本能寺の変」が勃発。利三は京の都でさらし首となりました。

 幸せな生活が一転、謀反人の家族となり、食べる物にも事欠く流浪の生活となるのです。やがて、親戚の公家の家に奉公に上がり、公家の行儀作法や教養を身に着けます。そして、17歳で母方の遠縁、稲葉正成の後妻となり、子宝にも恵まれます。

 しかし、正成が主君と反りが合わず浪人の身に。夫の故郷で、自給自足の極貧の暮らしに甘んじる中、夫は酒と女に溺れ…。暗澹たる思いを抱いていた1604年、25歳の福に朗報が。二代将軍秀忠の長男竹千代の乳母への登用でした。家康が福の父である名将斎藤利三を尊敬していたことが一因とされています。

 福にとっては千載一遇のチャンス。夫と別れ一番上の子正勝だけを連れて江戸城に上がります。家康は福に「父武名を以て天下に顕る。汝女人といえども恐らくは常人にあらず。能勤めて竹千代を保護せよ」と信頼の言葉をかけました。

 しかし、竹千代は病弱で内気、食が細い子供でした。福は何とか丈夫に育てようと「七色飯」を考案。麦飯、小豆飯、菜飯など七種のご飯を用意したのです。また、福の子、正勝を小姓にして竹千代の勉強や遊びの相手として目配りをします。

 ところが、竹千代の2歳下の弟、国松を両親が溺愛。国松は聡明で活発で次期将軍と噂されます。不安に襲われるお福――「弟が跡継ぎになれば、家督争いのもと。これではまた戦国時代に逆戻りしかねない」

 1611年、お伊勢参りと偽ってお福は江戸を出立。駿府城に隠居していた家康に直訴します。打ち首も覚悟でした。「弟が兄をさしおくということは、世間一般でもありません。ましてや、将軍の跡継ぎは天下の一大事です」と切々と訴えるお福の言葉に家康は耳を傾けました。

 その年の11月、家康が江戸城を訪れます。家康は、秀忠夫妻の前で三代目は竹千代と明言しました。以後、長子相続という秩序ができ、無用な争いが避けられたのです。

 1620年、竹千代は家光となり、3年後に三代将軍となりました。福は大奥の総取締役となり、女中たちの待遇改善をし、世継ぎのできない家光のために側室をスカウトするなどして尽くします。家光が天然痘で瀕死の状態になった時には「私は一生薬を断つので、家光様を助けて下さい」と、薬断ちの願をかけます。

 1629年、幕府代理で天皇に拝謁したお福は「春日局」という高貴な称号を賜ります。やがて64歳の時に春日局は病に伏し、家光がいくら薬を飲ませようとしても薬断ちを守ったまま息を引き取りました。

「西に入る月を誘い法を得て、今日ぞ火宅を遁れけるかな」(仏の教えを悟り、今日こそ苦しい現世から遁れられる)――春日局の辞世の句です。乱世に生まれ、自分の才覚で出世し栄華を極めた春日局にも人知れず苦悩があったのでしょう。

Profile

1579~1643年。三代将軍家光の乳母。明智光秀の重臣・斎藤利三の子・福として生まれる。本能寺の変で父が打ち首に。長じて稲葉正成の後妻となるが離婚し、1604年に二代将軍秀忠とお江(織田信長の姪)の間の長男・竹千代の乳母となる。献身的に仕え、三代将軍家光に育て上げ、大奥総取締として大奥の秩序を定めた。朝廷より春日局という破格の高貴な称号を賜る。その権力を行使し別れた夫や息子たちも幕府に登用させた。