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時を創った美しきヒロイン

時を創った美しきヒロイン

画家

フリーダ・カーロ

Frida Kahlo

私の作品とは、二度と描かれようのない、もっとも完全な自伝である

1970年代、メキシコを訪れたドイツのフェミニズム運動家達が、すでに亡い忘れられていた画家フリーダ・カーロの作品に出合います。多くは自画像で、つながった太い眉、力強い眼差しが強烈な印象を与えるもの。その衝撃をきっかけに世界中でフリーダが再評価されたのです。

 フリーダ・カーロは、1907年にメキシコの首都メキシコシティで、ドイツ人の父親とメキシコ人の母親のもと誕生しました。活発で利発なフリーダは、6歳の時にポリオに感染。右足が不自由になります。

 やがて、メキシコの最高教育機関、国立予科高等学校に進学。ハンサムな上級生と恋人同士になったある日の下校時。彼と一緒に乗ったバスに路面電車が衝突。金属の手摺がフリーダの体を貫き、全身を骨折します。

 命は取り留めますが、生涯、コルセットで固定した全身を激しい痛みがさいなみ35回以上もの手術を繰り返すことに。「死が私のベッドのまわりを踊り廻る」日々、母親は娘を励まそうとベッドの天井に鏡を取り付けます。父親は退屈しのぎに絵を描くよう勧めます。身動きできないフリーダは、痛みをはねつけるように鏡に映る自分を描き始めました。

 初めて描いた自画像を恋人に捧げますが、彼は国外へ去ってしまいます。それでもフリーダは、画家になることを目指すのです――「なし得ぬことを絵にするのが最も自分にふさわしいことと思えるようになった」

 フリーダは、メキシコの著名な画家ディエゴ・リベラのもとに作品を持って押しかけます。「才能があるかどうか見てほしいの」。そして2人は恋に落ち、1929年に結婚。フリーダ22歳、ディエゴ43歳でした。ディエゴはでっぷりとして女性スキャンダルが絶えなく、世間は「象と鳩の結婚」と揶揄しました。

 ディエゴの好みに合わせて、フリーダは色鮮やかなメキシコの民族衣装をまといます。しかし、事故の後遺症で流産を繰り返し、さらにディエゴの女癖の悪さに苦しみます。

 ついにはフリーダの妹まで愛人にしたと知った時の絶望…。「人生に殺されそうになった」フリーダは、恋人から全身めった刺しにされた女性の絵「ちょっとした刺し傷!」を制作。殺された女はまさに自分自身でした――「私は人生の中でふたつの重大な事故に遭いました。ひとつは電車にひかれたこと、もうひとつはリベラと結婚したことです」

 しかし、涙が乾いたフリーダは、ロマンスを繰り返すようになります。エキゾチックな美貌と奔放な気性で男性たちを虜にしたのです。

 画家としては、フランスの詩人アンドレ・ブルトンがフリーダの芸術を「爆弾のまわりに巻かれたリボンである」と称賛。ニューヨークやパリでの個展を成功させます。批評をものともしない衝撃的な絵はフリーダの人生そのものでした――「私の作品とは、二度と描かれようのない、もっとも完全な自伝である」

 ディエゴとは離婚しますが、1年後には復縁します。しかし、フリーダの体調は徐々に悪化。壊疽のため右足を切断した翌年、1954年に47歳で永遠に苦痛から解放されました。遺作となったスイカを描いた絵には「ビバ・ラ・ビダ(生命万歳)!」と記されていました。

 それから20年の時を経て、壮絶な生涯と、その心の内を生々しく描いた作品に再び光が当てられたのです。

Profile

1907~1954年。画家。メキシコ生まれ。18歳の時にバス事故に遭い、瀕死の重傷を負う。闘病生活の苦しさを紛らわすため絵を描き始める。22歳でメキシコを代表する画家ディエゴ・リベラと結婚。事故の後遺症による数度の流産、夫の浮気などの苦悩を投影した絵を制作。自分自身のために描き続けた作品と、苦痛と共に生きた生涯が生きづらさを抱える現代の人々に熱狂的に受け入れられている。