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時を創った美しきヒロイン

日本画家

片岡 球子

Kataoka Tamako

だれにも影響されないというのが私の生き方です

「私の絵、下手だろう。下手だろう」と平然と言い続けた画家がいました。日本画家の片岡球子です。そう言う球子の絵は、観る人を圧倒する強靭な魅力に溢れています。「だれにも影響されないというのが私の生き方です」と言い切った生涯でした。

 1905(明治38)年、片岡球子は、北海道札幌市で8人姉弟の長女として生まれました。醸造業を営む生家には、大勢の従業員がおり、大所帯でおおらかに育ちます。

 やがて札幌高等女学校を経て、同女学校の補習科師範部に進学。医師を目指しますが、ある日友人が「私があんただったら芸術家――絵描きになるわ、ダンゼン」と発言。球子は、数学、英語と絵も得意だったのです。
「その瞬間にスパークした」球子は、一転絵描きになると決意。現在の女子美術大学に進学します。
「こまごましてケチ臭い絵を描かないで、北海道の大地のような、でっかい、人が私の絵を見たら息が詰まるというような、そういう迫力の絵を描きたいと思った」――同級生のようにスマートな絵が描けない球子は、自分の個性を意識するのです。

 実は卒業後に、郷里で幼馴染の許嫁と結婚するはずでした。しかし、球子は絵の道を選び、自活のため横浜市の小学校で教職に就きます。そして、待ち続ける婚約者に球子は、「私のことは死んだものと思って」と別れを告げたのです。それでも彼に恋心を抱いていた球子は、「どこでばったり再会しても困らないように」と、外出時には紅白粉でお化粧をする乙女心を忘れませんでした。
「病気以外には、ふとんを敷いて寝た日がない」――日中は教師、深夜に絵の修業という日々、眠くなるとそのまま床に横たわります。ようやく院展で初入選したのは25歳の時。しかし、その後は落選続きで「落選の神様」とあだ名が。疫病神のように避けられる憂き目に遭うのです。

 それでも、人一倍の負けん気で絵に精進し34歳で院展再入選。以降順調に入選が続きます。しかし、大胆な構図や執拗に人物や衣類の柄を描く個性的すぎる球子の絵が、ゲテモノと噂されるように。そんな時、雲の上の存在と仰ぐ画家・小林古径から「ゲテモノと本物は、紙一重の差です。あなたの絵を絶対に変えてはなりません」と諭されます。この言葉が終生、励みとなったのです。

 やがて50歳で小学校を退職し、女子美術大学日本画科の専任講師に就任。本格的に画業に専念します。そして57歳で初の渡欧を経験。戦後、洋画の抽象画ブームが日本画にも押し寄せ、具象に邁進してきた球子も心が揺れざるを得ませんでした。でも、ヨーロッパの美術館や画廊を回った結果、「芸術に優劣はない。私は具象の研究に徹しようと決心がついて安心して帰国しました」

 そして、歌舞伎役者や雅楽、海、火山シリーズを描く中、59歳で挑んだのが富士山でした。ダイナミックな山容、溢れんばかりの色彩で四季折々の霊峰を描き、人気を博します。「人のかなしみ、苦しみのときにその人のこころに何かを点じられるような、そういう絵が一枚でも描けたら」そう願って描き続けました。

 61歳で愛知県立芸術大学の教授となっていた球子は、100歳を過ぎても指導に通い、100歳記念の個展も開催。教えること、描くことに全力投球し、個性を貫いた103歳の生涯現役の人生でした。

Profile

1905~2008年。日本画家。北海道札幌市生まれ。現在の女子美術大学で日本画を学び、卒業後は小学校の教師をしながら制作の道へ。50歳から女子美術大学、61歳から愛知県立芸術大学で指導にあたる。歌舞伎役者、雅楽、火山、富士山、歴史上の人物をモチーフにした面構(つらがまえ)などのシリーズを発表、晩年は裸婦を描く。1965年には富士山に通いやすい藤沢市に移り住む。1989年に文化勲章を受章。