エッセイスト
清少納言
Seishonagon
心にうかぶものをそのままたわむれに書きつらねたもの
「春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。」――日本人なら誰もが習ったことのある『枕草子』の冒頭です。千年も前の平安朝に、清少納言によって書かれた香気溢れる随筆文学の傑作ですが、そこにはある愛の物語が秘められていました。
清少納言は、名前や生年月日など定かではありませんが、966年頃に生まれたとされています。曾祖父は藤原深養父、父は元輔という優れた歌人の家系に生まれました。父は娘にありったけの学問を授け、才気走った少女に育ちます。
やがて、若くして結婚した橘則光とは離婚に終わり、さらに父が病死。人生の転機が訪れたのはそんな28歳の頃でした。当時の一条天皇の中宮(お妃)は、関白・藤原道隆の娘定子。その教育係に才女と評判の清少納言が選ばれたのです。そして、清少納言という女房(高貴な人に仕える女性)名になりました。
17歳の定子は朗らかで優雅で教養豊かで、すぐに清少納言の敬愛の対象となります。しかし、華やかな宮中の暮らしに清少納言は気後れがちに――「はづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ」
そんな冬のある日、定子は「香炉峰の雪は?」と女房たちに尋ねますが、誰も答えません。その時、清少納言がすかさず御簾を持ち上げます。有名な漢詩の一節「香炉峰の雪は御簾を上げて見る」にちなんだ機転で、定子の信頼を得た瞬間でした。
定子のサロンで花のある存在となった清少納言の噂は広まり、言い寄る貴公子が続々と。彼らとは機知に富んだ会話で社交を楽しみます。しかし、楽しい日々も長くは続きませんでした。定子の父が急死し、叔父の道長が関白となり、その娘彰子が新たな中宮となったのです。後ろ盾を失った定子は肩身の狭い立場に。
さらに、清少納言は道長のスパイという噂が。そのため、清少納言は身を引きます。そんなある日、定子から手紙が。ただ、山吹の花びらに「言はで思ふぞ」とだけ書かれてありました。それは古い歌の引用で、〝言わないでおくが、心の中であなたのことを深く思っている〟という定子の気持ちを清少納言は悟ります。
すぐに定子のもとに駆けつける清少納言。彼女が戻ったサロンは再び活気を取り戻しますが、それもつかの間、三度目の出産後に定子は24歳の若さで亡くなったのです。最愛の人を失った悲しみの中、清少納言は定子に頂いた白い紙に、美しい思い出だけを書くことを決意します――「心にうかぶものをそのままたわむれに書きつらねたもの」
そこに綴られたのは、輝かしかった定子への賛美、四季折々の美しさ、ファッションから男性の品定め…。個性的な感受性と繊細な感覚で、典雅な王朝世界を書き留めました。
それが友人に伝わり貴族の間で広まりました。その人気ぶりを非難したのが彰子の女房、紫式部でした――「教養をひけらかして嫌な女」。紫式部は、後に『源氏物語』を書いた人物。けれども、『枕草子』の評判はますます高まっていきました。
「ただただ過ぎていくもの。帆をかけた舟。人の齢。春、夏、秋、冬」――時は過ぎても、千年先までも定子の美しさが伝わりますように…。清少納言の願いは、今も色褪せることなくきらめき続けているのです。
966(?)~1025(?)。エッセイスト。『古今和歌集』に歌が載った歌人藤原深養父を曾祖父とし、三十六歌仙に選ばれた元輔を父として京都に生まれる。周防守となった父に伴い少女時代を山口県で過ごす。28歳の頃、中宮定子に仕える。定子のサロンを盛り上げスター的存在の女房となるが、定子が24歳で没すると、隠遁生活に。その中で『枕草子』を書き上げる。結婚は2~3回とされている。