バレリーナ
アンナ・パヴロワ
Anna Pavlova
私の支配すべきは、人々のハートなのです
19世紀末、帝政ロシア時代のサンクトペテルブルグ。粉雪の舞うクリスマスの夜に、8歳のアンナ・パヴロワと母親を乗せたそりが走っていました。着いたのは帝室マリインスキー劇場。アンナは、生まれて初めて観るバレエ『眠れる森の美女』に、たちまち心を奪われます。
「その夜、生涯を踊りに捧げねばならない自分の運命を知りました」――世界的な名バレリーナ、アンナ・パヴロワとバレエの出会いでした。
アンナは、1881年にサンクトペテルブルグで誕生。間もなく父親は亡くなったとされ、母一人子一人で育ちます。「おとぎの国へ行きましょう」。つましい生活の中、母からの精一杯のクリスマスプレゼントがバレエ鑑賞だったのです。
「いつか私もお姫様の役をここの舞台で踊るの」――アンナの願いはまず、10歳で難関の帝室バレエ学校入学となって実現します。人一倍か細い身体のアンナでしたが、厳しいレッスンに耐え、18歳でマリインスキー劇場入団をかなえたのです。
しかし、当時もてはやされていたのは、筋肉質のプリマの力強い踊り。華奢な肢体のアンナは、時代遅れとされます。けれどもアンナにとっての理想は、少女時代に観た『眠れる森の美女』。〝ファンタジーあふれる夢の世界こそバレエ〟――アンナは、ひたすら自分が信じる芸術を目指して精進します。やがて23歳で、『ジゼル』の主役に抜擢。優雅に蝶のように舞うロマンティック・バレエで観客を魅了したのです。念願のプリマに昇格したのは25歳の時でした。
そんなある日、同期生で振付師となるフォーキンが奏でるサン=サーンスの『白鳥』を聴き、うっとりとするアンナの姿が…。すぐにフォーキンは、即興で『瀕死の白鳥』を振り付けます。その初演日。命が燃え尽きる寸前に懸命に羽ばたこうとする白鳥の儚げな舞いに、観客は感動。アンナの代表作となったのでした。
1908年、初めて北欧公演に出たアンナは、舞台がはねた後に、ホテルの周りに集まってきた大勢の人々を不思議に思います。メイドの答えは、「つかの間でもあの人たちの哀しみを忘れさせ幸せにしたマダムにお礼を言いたいのです」。
この出来事に感動したアンナは、自らを美の使者とし、活動の場を世界へ広げていきます――「神様は世の中の方々を歓ばせようと、私に踊りという贈り物をくださいました」
しかし、ロシアの芸術であるバレエが他国ではまだ浸透していなかった時代。ロンドンでは演芸と見られ、ニューヨークではオペラ終演後の余興扱いという屈辱が待ち構えていました。でも、そんなことにひるむアンナではありません。「私の支配すべきは、人々のハートなのです」
日本の芝居小屋、メキシコの闘牛場…、どんな舞台であろうと、最高の踊りを披露し、人々を陶然とさせます。観客も王侯貴族から貧しい農民まで様々。飛行機のない時代に地球を10周したとされるほど世界の隅々まで美しい贈り物を届け続けます――「芸術には人種的偏見も、国境もありません」
けれども旅の途中。1931年1月23日、風邪をこじらせたままオランダのハーグに着いたアンナは、50歳の若さで黄泉の国へ旅立ったのです。「白鳥の衣裳を用意してちょうだい」が最後の言葉でした。
1881~1931年。バレリーナ。ロシアのサンクトペテルブルグで誕生。帝室バレエ学校で学び、マリインスキー劇場バレエ団の花形バレリーナとなる。当時、衰退していたロマンティック・バレエを復活させ、『瀕死の白鳥』が代表作に。30歳の頃からバレエで多くの人々に尽くしたいと願い世界巡業を開始。ロンドンを拠点に後輩の育成にも努めた。