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時を創った美しきヒロイン

ジャーナリスト、ツーリストライター

兼高 かおる

Kanetaka Kaoru

緊張や不安より期待のほうが大きかった。
物事はやろうと思えば必ずできる

 日本人が気軽に海外旅行が出来なかった時代、海外への見聞を広げたテレビ番組『兼高かおる 世界の旅』がありました。31年も続いたほど大人気で、案内役の兼高かおるは、レポーター兼ディレクター、ナレーター、編集まで務めました。そして、「行って、見て、出会って、感じたい」と、約160か国も巡ったのでした。

 1928(昭和3)年、兼高かおるは神戸で誕生し、東京で育ちます。本名兼高ローズで、父親はインド系と伝わりますが、本人は父のことに触れることは一切ありませんでした。大変なお転婆娘でしたが、母親に叱られることなく、のびのびと育ちます。そして、外国の童話本に、「いろんな国を見てみたい」と幼心に憧れをかき立てられます。

 やがて、香蘭女学校在学中に独立心旺盛なかおるは、「ホテル業者になりたい」という夢を公言するように。子どもの頃から、山中湖や軽井沢で夏を過ごし、リゾートホテルの快適さに魅力を感じていたのです。

 終戦後、ホテル経営のために留学を目指していたかおるにチャンスが訪れたのは26歳の時。ロサンゼルス市立大学に留学がかなったのです。

 つい数年前まで敵国だったアメリカの人々は親切で「私は生まれつき旅人かもしれない」と思うほど、現地に馴染みます。しかし、なりふり構わぬ猛勉強がたたって身体を壊し、帰国せざるをえませんでした。

「これも運命だ」と、自分に言い聞かせたかおるは、英語を忘れないようにと、訪日した外国人のインタビューを始めます。ある日、早回り世界一周で89時間18分37秒の新記録を出したアメリカ人ジョセフ・カボリーへの記念品贈呈役を務めます。

 その直後にスカンジナビア航空が北極回り航路を開設したことを知り、「これなら80時間で回れる」とひらめいたのです。そして、東南アジア、パキスタン、ヨーロッパを回り、アンカレッジ経由で帰国という世界一周に挑戦。プロペラ機での73時間9分35秒の最速記録を樹立します。1958年のことでした。

 かおるは一躍有名人となり、飛行機内で寝る間も惜しんで綴った紀行文を週刊誌に掲載。ラジオ東京(現TBS)から仕事も依頼されます。海外に詳しい有名人にインタビューするラジオ番組でした。この放送が好評となり、日本のテレビ初となる海外取材番組につながったのです。

 1959年、多額の経費を渡され万歳三唱で羽田を発ったかおるが第1回目放送のローマに着くまで52時間を要した時代でした――「緊張や不安より期待のほうが大きかった。物事はやろうと思えば必ずできる」

 同行者はカメラマンとそのアシスタントのみ。シナリオも予定もなくかおるが気になった場所で足を止め、現地の人々に直接話を訊くというスタイルでした。これが海外に馴染みのない視聴者に大受けし、番組名も『兼高かおる 世界の旅』となり、31年間も続くことになりました。

「“世界の旅”は人生の学校だった」――時にはカメラマンとの諍いも生じます。また、異国で思いもかけないトラブルも。そんな苦境には「その国に敬意をもってふるまう。そして笑顔は世界中どこでも通じる共通言語」という信条で乗り切ります。

「私は国際人ではなく“地球人”」――南極から北極、空も海中も、王宮からサバンナまで、地球を180周分も旅をしたかおるの言葉です。

Profile

1928~2019年。ジャーナリスト、ツーリストライター。神戸市生まれ。ロサンゼルス市立大学に留学、帰国後フリージャーナリストに。1958年、スカンジナビア航空主催の世界早回りコンテストで73時間の新記録樹立。1959年から1990年までテレビ番組『兼高かおる 世界の旅』で、レポーター、ナレーター、ディレクターなどを務める。1971年に一般女性で初めて南極点に到達。ケネディ大統領、画家のダリ、チャールズ皇太子など世界のセレブにも取材。横浜人形の家の館長も務めた。紀行文など著書多数。