5.涙に濡れた教室
その日も母は早く帰宅した。由真の好きなビーフシチューを作り、ケーキにロウソクを立てて由真の誕生日を祝ってくれた。言葉は少なかったが、おめでとうと言ってくれた母を由真はじっと見つめて言った。
「お母さん、もう早く帰って来なくていいよ。いつも通りで構わないから。仕事、大変なんでしょ」
「会社のことなら心配いらないのよ」
母は微笑んで言った。
「そうじゃない。いいよ。あたしに合わせて、無理されてるのいやなの。それに、明日から学校へ行くから」
母は胸を突かれ、由真の顔を見た。「登校しなさい」と言わずにきた母は、その言葉を聞けてなによりうれしかった。母は何も言わずに頷くと、目に涙を滲ませた。そして「これ・・・」と由真に包みを差し出した。
開けてみると、携帯電話が目に映った。
次の日、由真は早朝に目が覚めた。しばらくベッドの中で寝返りを打っていたが、起き出して制服を着た。母はまだベッドの中にいる。
ユマはこっそり家を出て学校に向かった。久しぶり、一ヶ月半ぶりの登校だった。校門をくぐり校庭に足を踏み入れた。
朝練のために野球部やサッカー部の生徒が眠たげな顔をして登校し始める時刻だ。
朝礼台の階段に腰掛けて、由真はしばらく校舎を見ていた。この時間はまだ誰も教室にいないはずだ。由真は教室へ向かった。
昇降口でひとり上履きに履き替え歩き出した。しんと張った朝の空気。誰もいない廊下は学校とは別の空間のように感じられた。
教室に近づいたところで、ふと、由真は足を止めた。すすり泣く声がする。それは由真の教室から聞こえてきた。誰もいない校舎の廊下にかすかに響いている。
マモルの幽霊?
一瞬、由真は凍りついたが、怖くはなかった。マモルだったら、逢ってもいい・・・。今までありがとうって言いたい。
そして死んだら続きがあるのか、聞いてみたい。由真はゆっくり声のする教室に近づいて行った。
教室の引き戸は開いていた。教室の入り口に立って、由真は唖然とした。
あのカタブツの沼田が泣いている。物理を教える厳しいあの沼田が・・・。沼田先生はクラスの担任だった。
テストで少しのミスも許さない、冷たいヤツだと思っていたあの沼田が、マモルの机にすがるように抱きついて泣いている・・・。
「なんで死んだ?なんで先に逝った?」
そう繰り返し小さな声で言いながら。その無防備な姿に、由真は胸を打たれた。
由真は先生のそばへ行き、震えるその背中に手を当てた。ビクッとして先生は振り向いた。
「川原か・・・」
先生は、由真の存在に初めて気づいたようだった。
「身体はもう大丈夫なのか?」
先生は涙を隠さなかった。
「毎朝、先生はこうして泣いていたの?」
返事はなかった。
由真は視線を宙に浮かべて言った。
「マモル・・・見てる?あのカタブツで冷血漢の沼田が、マモルのために泣いてるよ」
そう言うと、由真の目から涙が零れた。マモルが逝ってから、ようやく由真はマモルのいた教室に足を踏み入れることが出来た。マモルの机に触れることができた。マモルの机のそばで泣くことができた。今度は沼田先生が何も言わず由真の背中に手を当てた。
さようなら、さようなら、マモル・・・。ありがとう。今まで、いろんなこと、ありがとう。もう、立ち止まらないからね。見ていてね。
心の中で由真は叫んだ。そして、先生を見た。先生も声を殺して泣いている。そこにいるのは、いつもの沼田先生とは明らかに違う、一人のちっぽけな人間だった。弱くて脆い、そんな一面を持つ一人の人間だった。由真はマモルを思って泣いたが、途中から、先生のために泣いているような気もした。そして思った。
今、先生のそばにいられてよかった。
「今日で終わりだ。終わりにするよ」
先生はマモルの机をそっと撫でた。
二人はしばらくマモルの机から離れなかった。
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