時を創った美しきヒロイン 原 節子

時を創った美しきヒロイン

このままの生き方で――よそほいの花の一つにしかざりき

原 節子Setsuko Hara

 2015年11月26日、昭和の映画スター原節子が、同年9月5日に亡くなっていたことが大々的に報じられました。原節子は、1962年に42歳で唐突に映画界を去り、その後人前に姿を現すことはありませんでした。長らく伝説の女優とされ、海外でも神話化された存在でした。
 原節子は、1920(大正9)年に横浜の保土ヶ谷で誕生しました。二男五女の末っ子で本名は会田昌江。運動が得意で成績優秀、同級生に「5センチ眼」と呼ばれた目の大きな彫りの深い美少女でした。やがて、高等女学校を経済的な理由で中退した昌江は、姉の夫で映画監督の熊谷久虎の誘いで映画界に入ります。
 デビューは15歳。『ためらふ勿れ若人よ』という作品で、ヒロインの節子役から原節子という芸名になりました。新人の節子は何度も同じシーンの撮り直しをさせられ、食事が喉を通らないほど疲労困憊。「私が泣くシーンになると、どこかで笑い声がするんです。……それこそ泣き出したいような気持になったものでした」と、拙い演技を試写会で笑われた思い出を振り返っています。
 7作目の『河内山宗俊』を撮影中、「運命の不思議」が起こります。ドイツの映画監督アーノルド・ファンクが日独合作映画を制作するために来日。スタジオを訪れたファンクの前にたまたま残っていた節子が「渋々出ていった」結果、『新しき土』のヒロインに抜擢されたのです。
 映画完成後、宣伝のための渡欧。欧米を回って帰国した17歳の節子は、洋行帰りのスターの輝きをまとう一方、酷評も待ち受けていました――「大根女優、大根女優と批評などで叩かれた時代になります。……私は私なりのいいところだってあるのじゃアないかと……」
 その“いいところ”が一気に花開くのは、25歳で敗戦を迎えてから。いち早く映画に出演した節子は、「焼け跡に舞い降りた天使」と謳われます。美しい言葉遣いと立ち居振る舞いで、混乱期の荒んだ日本人の心を明るく照らしたのです。節子自身も引き揚げ者の姉一家など一族20人を抱え、生きることに懸命でした。
 続いて、『わが青春に悔なし』では、迫害に立ち向かう力強い女性を、『安城家の舞踏会』では、明るく前を向く没落華族の令嬢を演じます。「この二つに出演していなかったら、女優を続けることができなかったかもしれない」――もはや大根と批判する人はいませんでした。
 さらに、『青い山脈』では、民主主義を説き新生日本を体現する教師役で人気爆発。500万人もの観客を動員する大スターとなったのです。
 その節子がさらに飛躍したのは、小津安二郎監督との出会いがあってからでした。『晩春』『麦秋』『東京物語』に立て続けに出演。クローズアップでの細やかな表現力に観客はひき込まれます。
 現役最後の頃、細川ガラシャ役を望みますが、実現はしませんでした――「自分の意志を貫いたガラシャ夫人はあたくしにとって魅力的」「このままの生き方で――よそほいの花の一つにしかざりき――」――華やかに装っているが、いつかは散りゆく花と女優業を表現した節子は、まさにひっそりと引退したのです。「私はもう原節子という名前を捨てて、今は本名の会田昌江で暮らしております」――銀幕を去って10年後、伝説と化した節子の最後の発言でした。

1920〜2015年。女優。神奈川県生まれ。本名、会田昌江。15歳で映画デビュー。目鼻立ちがはっきりとした長身の容姿で、「洋風の近代的な美貌」と謳われる。楚々とした気品のある美しさで人気を集めた。生涯108本の映画に出演。代表作『わが青春に悔なし』『晩春』『東京物語』『めし』など多数。42歳で引退宣言もなく表舞台から去り、様々な憶測を呼んだ。

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