時を創った美しきヒロイン 松井 須磨子

時を創った美しきヒロイン

私はただ私として生きて行きたいと思うのです

松井 須磨子Sumako Matsui

 1914(大正3)年、帝国劇場でトルストイ原作の『復活』が上演されました。主演は今を時めく人気女優松井須磨子です。舞台は大当たりし、劇中歌『カチューシャの唄』が空前の大ヒット。蓄音機が希少だった時代に、レコードは2万枚も売れ、全国津々浦々で歌われました。須磨子が使用した髪留めは、カチューシャと呼ばれ大流行。さらに、日本全国、朝鮮、満州、台湾を巡演し、4年間で444回も上演されたのです。
 松井須磨子の本名は小林正子。1886(明治19)年、信州松代で真田家の元家臣の家に生まれました。9人兄姉の末っ子で、男の子と喧嘩し、傷が残るほど負けん気の強い少女でした。やがて、東京に嫁いだ姉を頼って上京します。
 その頃、東京では新しい演劇「新劇」運動が興っていました。女優は風紀を乱すと禁止されていた江戸時代から、明治になって女優解禁に。そのはずみで文化人の間で演劇が最先端の芸術と注目されていたのです。そんな風潮に、文学好きだった正子も影響されていきます――「舞台の上に実際以上の張りつめた張りつめた生活がしたいと思った」
 そして、文学者坪内逍遥が女優養成に乗り出し、正子はその第一期生となります。負けず嫌いの正子は、早朝から踊りの練習に通い、夜は寝る間も惜しんで台詞の稽古に励みます。シェイクスピアの原書にふり仮名を書き入れ丸暗記するほどでした。
 努力の甲斐あって、明治44年、24歳で『ハムレット』のオフィリア役に抜擢され、芸名松井須磨子として初舞台を踏んだのです。
 同じ年の11月に、イプセン作『人形の家』のノラを熱演。家庭を捨てるノラに観客は仰天しつつも、須磨子のリアルな演技に拍手喝采。雑誌『青鞜』はノラ特集号を出し、「ノラになる」が流行語となりました。
 この舞台の演出家は、島村抱月。逍遥の愛弟子であり、洋行帰りの新進気鋭の演出家でした。〝西洋で学んできた演劇を日本で!〟と理想に燃える抱月は、須磨子を新時代の女優にするべく厳しく指導したのです。
 続いての『故郷』も大当たりし、須磨子は一躍人気スターに。その陰で、須磨子は妻子ある抱月と道ならぬ恋に落ちていました。逍遥が須磨子を叱責しても、素直に聞くような須磨子ではありません――「どうして愛してはいけないの?」
 大正2年、抱月は恩師と袂を分かち須磨子と共に芸術座を結成。須磨子27歳、抱月42歳の時でした。この恋愛スキャンダルは新聞を賑わし、旗揚げ公演は、好奇心に駆られた観客で大入りとなります。そして翌年、第3回公演に選んだ『復活』が大評判となったのです。
 しかし、一心不乱に稽古に励む須磨子の演劇への情熱が、周囲からの孤立を招いていきます。抱月には従っても、他の人にはっきりと意見を言う須磨子につきまとう言葉は、「女のくせに生意気」…。悔し涙を流す須磨子――「男と同じ自由を与え同じ尊敬を払って見て貰いたい」
 そんな中、大正7年11月5日、抱月がスペイン風邪で急逝します。「私はただ私として生きて行きたいと思うのです」――男性と対等に生きたいという須磨子の望みも、愛する抱月なくしては意味のないこと…。「私はやっぱり先生の処へ行きます」――抱月の死から1年後、須磨子は最愛の人のもとへ旅立ちました。

1886〜1919年。女優。長野県生まれ。坪内逍遥が主宰する文芸協会演劇研究所の第一期生となり、『ハムレット』のオフィリア役で女優デビュー。『人形の家』のノラ役で大人気に。大正2年、妻子ある島村抱月との恋愛関係で騒がれて、2人で芸術座を旗揚げ。『復活』のカチューシャ役で大当たりをとる。抱月の急逝後、後を追って自殺。

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