時を創った美しきヒロイン 長谷川 時雨

時を創った美しきヒロイン

女が女の肩を持たないでどうしますか!

長谷川 時雨Sigure Hasegawa

 1908(明治41)年2月、歌舞伎座で懸賞脚本当選作『花王丸』が上演されました。当代きっての花形役者が出揃い、しかも当選した作家が20代の長谷川時雨とあって大評判に。女性の作品が上演されるのは、歌舞伎座始まって以来のこと。表看板には美貌の時雨の写真が掲げられ、ブロマイドまで発売。作者本人が大人気となったのです。
 長谷川時雨は、明治12年東京日本橋で7人弟妹の長女ヤスとして誕生。父親は官許代言人(現在の弁護士)という恵まれた家庭で、粋で気風の良い江戸っ子として育ちます。
 18歳になると時雨は鉄成金一家の、放蕩息子に嫁がされます。「いやだ、いやだ、いやだ」と行燈の紙にまっ黒になるほど書いて抵抗しても無駄でした。
 むなしいままの結婚4年目。夫婦で岩手の釜石鉱山へ赴任を命ぜられても、夫は東京へ遊びに出たきり…。でも、独りきりのあり余る時間が時雨に恵みとなりました。
 「この山住みの丸三年は、あたしに真の青春を教えてくれた」――都会の日本橋にはない自然の中で思索にふけり、筆を取ります。そして、「女学世界」の懸賞小説募集に『うづみ火』を応募。特賞に選ばれたのです。22歳のデビューでした。次々に「女学世界」や「読売新聞」に投稿しては入選。やがて「時雨」というペンネームを使い始めます。
 帰京後、夫との協議離婚が成立。脚本『海潮音』や『花王丸』が当選し、時雨は劇作家として自立したのです。また、美しい生き方をした女性の評伝集『美人伝』シリーズを著し、ライフワークとするのです。この美人伝が評判になる一方で、「女の肩を持ちすぎる」という非難も起こります。時雨はあっぱれな名セリフで返しました――「女が女の肩を持たないでどうしますか!」

 36歳の時、時雨のもとに12歳年下の文学青年三上於菟吉から作品が送りつけられます。時雨が丁寧に感想を送ったことから、三上の熱烈な求愛が始まったのです。その情熱に打たれ、時雨は結婚を決意しました。
 時雨は夫の才能を見込んで、雑誌社への売り込みまでして支えます。その甲斐あって三上は、大衆文学で今を時めく人気作家となります。降るように印税が入るとともに、三上の外泊が増していったのです。
 後ろめたい三上は時雨に、「ダイヤでも買ってあげよう」と言い出します。時雨はすかさず、「ダイヤはいらないから、女だけの雑誌を作る資金がほしい」と切り返しました。発表の機会の少ない女性作家たちを支援しようと考えていたのです。
 こうして昭和3年、『女人芸術』が創刊――「女性文筆の公器となり、いい女人騎手のための駿馬たらんことを思います」
 『女人芸術』からは、林芙美子や円地文子などが世に出て行きます。しかし、思想弾圧を受けて困窮していた左翼の女性作家にも誌面を解放したことから、発禁処分に。ついに、昭和7年に休刊となりますが、その後も後輩女性の才能が開花するのを惜しみなく手助けしました。
 「人の為になる」――若い頃に誓ったとおりの人生を歩んだ時雨が病で亡くなったのは、昭和16年61歳の時。「(樋口)一葉のことを書かなくては。あたしが書かなくて誰が書けるかい」が最期の言葉でした。

1879~1941年。劇作家、小説家。東京日本橋生まれ。最初の結婚に破れた後に、劇作家として華々しくデビュー。女性評伝集『美人伝』シリーズもヒットした。12歳年下の作家三上於菟吉と再婚後、女性だけの雑誌『女人芸術』を主宰。多くの女流作家を輩出した。61歳で戦地慰問後に病没。吉川英治は「日本の誇り、文化の華です」と弔辞を読んだ。

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