時を創った美しきヒロイン 高村 智恵子

時を創った美しきヒロイン

恋愛と芸術と、私にはこれを同時にお答えする外しかたがありません。

高村 智恵子Chieko Takamura

 1911(明治44)年、平塚らいてうが女性のための文芸誌『青鞜』を創刊しました。「原始、女性は太陽であった。」――巻頭のこの宣言とともに、毅然と立つ女性像が描かれた表紙絵が人々に強い印象を与えます。描いたのは、長沼智恵子。後に彫刻家で詩人の高村光太郎の妻となる26歳の新進画家でした。
 智恵子は、1886(明治19)年に現在の福島県二本松市に六女二男の長女として誕生。生家は裕福な造り酒屋でした。女学校を首席で卒業した智恵子は、上京して日本女子大に進学。在学中に絵を描き始め、卒業後、洋画家の道を目指します。
 両親は地元で縁談を進めますが、「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこしらえたもの。それに縛られて一生涯自分の心を偽って暮すのはつまらないこと。私の一生は私が決めればいいんですもの、たった一度しかない生涯ですもの」と反発。自分の意志を貫く生き方を選びます。
 そして、『青鞜』の表紙絵を描いた年の暮れ、智恵子は女子大の先輩から高村光太郎を紹介されます。光太郎は、日本彫刻界の重鎮、高村光雲の長男で、洋行帰りでした。しかし、欧米の文化に触れてきた光太郎から見た日本の美術界は旧態依然としたもの。光太郎はそんな現実に苛立ち、放蕩生活を送っていたのです。
「このやくざ者の眼の前に奇蹟のように現れたのが智恵子であった」――純情でひたむきな智恵子を、光太郎は好ましく思います。智恵子もまた、近代的な息吹をまとった光太郎を眩しく見つめます。
 やがて愛を深めていった二人は、双方の両親の猛反対を押しのけて結婚。智恵子29歳、光太郎32歳でした。

「二人が為事を 放擲ったときの私たちの家庭は、まるで幸福の洪水だ」――夫婦でアトリエにこもり創作に没頭する日々。貧しくとも、愛に満ちた濃密な世界を築いていきます。やがて光太郎は彫刻家として名を上げ、詩集『道程』も評判となります。
 一方、智恵子は思うような絵を描けず、もがき苦しみます。また、実家が破産し、一家離散となり、愛する故郷を失います。さらに、光太郎は取材旅行で不在がちに…。次第に心を病んでいく智恵子でした。
「もう天然の向うへ行ってしまった智恵子」――光太郎の必死の看護もむなしく智恵子の病状は悪化。とうとう病院に入院したのです。
 ある日、見舞いに訪れた光太郎に智恵子は恥しげに包みを差し出します。中にあったのは、紙切れを切り抜いて貼り合わせた紙絵でした。食卓の果物や食器、花などあらゆる身の回りのものを表現し、その造形美、色彩感覚に光太郎は感嘆します。
「ああ恋愛と芸術と、私にはこれを同時にお答えする外しかたがありません」――かつて雑誌の取材で幸福の定義にそう答えた智恵子。その愛と芸術への熱い思いが砕けた心のうちで美しく開花したのです。入院から3年8か月後、智恵子は帰らぬ人となりますが、病室の押し入れには膨大な数の紙絵が仕舞われていました。ただ光太郎に見せるためだけに創り続けた智恵子の〝愛〟でした。
「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」―― 智恵子の死後、光太郎は詩集『智恵子抄』を発表し、智恵子の裸婦像を制作。光太郎もまた智恵子との永遠の愛に生きる道を選んだのです。

1886~1938年。画家。福島県安達町(現・二本松市)で誕生。日本女子大学を卒業後、太平洋画会研究所で油絵を学ぶ。29歳で高村光太郎と結婚。やがて、画家としての自信喪失や実家の破産、生活苦などから精神を病み入院。千数百点もの紙絵を創る。空襲消失をまぬがれたそれらの紙絵は各地で展覧されている。また智恵子と光太郎の愛の軌跡は『智恵子抄』に詳しい。

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