時を創った美しきヒロイン 津田 梅子

時を創った美しきヒロイン

自分の使命は、日本の女性に教育の機会を与えることにある。

津田 梅子Umeko Tuda

 明治4(1871)年12月、横浜港から振り袖姿の5人の少女たちを乗せた船が出航しました。欧米に追い付くのに必死になった明治政府の「優秀な人材は教養ある母親から」という短絡的な考えのもと集められた留学生で、最年少はわずか6歳の津田梅子。それから11年後、ドレス姿で帰国した梅子は、日本の現実に打ちのめされるのです。
 津田梅子は、1864年(元治元年)、江戸の牛込で誕生。父の津田仙は幕臣で、通訳として洋行の経験もあり、維新後は西洋農学を広める農学校を創った先進的な人物。そのため日本初の女子留学生募集にすぐに飛びついたのです。
 そうしてアメリカの家庭に預けられた梅子は、すぐに母親に手紙を書きます――「本は初めてのを読みい参らせ候。手習いもいたしをり参らせ候」。とこの後、梅子の手紙は英文で書かれるように。幼い梅子は、すぐにアメリカの生活に馴染み、学業は優秀で地元紙の記事になるほどでした。こうして、ハイスクール卒業までをアメリカで過ごします。
 明治15(1882)年、「明日、私の人生の新しいページがめくられます」と、希望を抱いて梅子は帰国。国費留学生の使命に燃え、「どうしたら日本の女性の役に立つか、どこから始めたらよいのか、全く道は暗くておぼつかないのです」と意気込む梅子。でもそこに道はありませんでした。もはや女子教育の方針は、男性に黙って従う女性が理想となり、女子留学生には活躍する場などなかったのです。高等教育はほとんどが女性に閉ざされていました。新設された華族女学校の英語教師に就いたのは、帰国から3年後のこと。

 「ああ、可哀想な可哀想な日本の女性たち。あなたたちの立場をよくするために何かしたいと私は強く願っています」――梅子は、もっと高みを、女性解放までを目指した女子教育を夢見ます。〝でも、今の私には力不足。もっと学ぶ必要がある〟と思い定めた梅子は、24歳の時、再び留学を決行。フィラデルフィアにあるブリンマー大学に授業料と寮費免除での入学を果たします。
 卒業後も再び渡米し、ヘレン・ケラーと会い、「熱心の力の恐るべきことを学ぶ」と感動。さらにはイギリスでナイチンゲールと対面。日本女性の地位の低さを訴える梅子に、「イギリスも昔はそうでした。あなたも頑張りなさい」と励まします。
 「自分の使命は、日本の女性に教育の機会を与えることにある。男性と同じように機会が与えられたら女性は必ず変わるはず」――梅子の念願がついに実現したのは、明治33(1900)年。国内外のネットワークを駆使して基金を募り、「女子英学塾」を開校したのです。生徒数わずか10人でのスタートでした。そこにアメリカの友人が無報酬で駆けつけます。かつての留学生仲間も援助します。
 卒業生は英語教師となって巣立っていきました。小さな塾は、戦後、津田塾大学となって発展します。生涯独身で、女子教育にまい進した梅子は、偉ぶらず、常にユーモラスで温かな人柄だったとか。その人柄に魅かれ多くの人が援助を惜しみませんでした。「私は憂鬱になったり落胆したりせず、明るい面を常に見るようにしたい。ものごとを幸せに考えるたちなんです」

1864~1929年。教育者。6歳で日本初の女子留学生5人の最年少として岩倉具視使節団とともに渡米。17歳で帰国後、華族女学校、女子高等師範学校で教える。24歳で再びアメリカ留学し、生物学を学ぶ。明治33年、女子英学塾(後の津田塾大学)を創立。英語教師の育成を目的とした少人数で個性尊重の教育を行う。封建的な時代に女性の自立と解放を目指した。

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